第6章 プロジェクト『ブラックアイス』
冬木澪がようやく顔を横に向けた。距離が近すぎて、互いの息づかいまで触れそうだった。
「いくつか、講義を取っただけ」
淡々と。取るに足らない話でもするみたいに。
藤堂湊が低く笑う。声にわずかな遊びが混じった。
「どこの大学だ。教授は誰? 知り合いかもしれない」
冬木澪は視線を引き、キーボードへ戻す。
「あなたには関係ない」
指が最後のキーを落とした。
画面の暗号ファイルを覆っていた殻が、砕けたガラスみたいにばらりと散る。中身が一気に露わになった。
冬木澪の視線が、複雑な案件説明と資金の流れを矢のように走り――最後の一行で、ぴたりと止まる。
そこにあったのは、特殊な電子署名。ここにあるはずがない名前。
瞳孔がきゅっと縮み、息が一瞬途切れた。頬から血の気が引いていく。
――ありえない。
これまでの推測が、根元からひっくり返る。
その次の瞬間だった。
ページが見えない手で引き裂かれたように歪み、文字が溶け、縁からピクセル状の黒い炎が燃え上がった。
「間に合わない」
冬木澪が冷たく言い、指が残像になる。遮断に走らせるが、黒い炎の広がりが異常に速い。半分以上が一息で呑まれた。
「……発動するはずがないだろ」
藤堂湊が眉を寄せる。
冬木澪の目が凍る。迷いなく暗号トークンを引き抜いた。
画面がふっと落ち、筐体の奥で「ブゥン」と低い唸り――そして静寂。
黒い炎は最後の一フレームで止まり、闇と一緒に消えた。
「外からじゃない」
冬木澪は真っ黒な画面を睨み据えたまま、声だけを落とす。
「あなたの父親が仕込んだもの」
「導火線は藤堂グループ全体に繋がってる」
立ち上がり、冷たく促す。
「選択肢はひとつ」
「あなたの父親の書斎に連れて行って。今すぐ。1秒遅れたら、その1秒ぶん藤堂グループは棺桶に近づく」
言い終えた刹那。
社長室の扉が、叩き壊す勢いで開いた。壁に当たって「ドンッ」と轟音が走る。
高級スーツに身を包んだ中年の女が飛び込んでくる。手入れの行き届いた外見なのに、顔色は青く、目は刃物みたいに鋭い。
視線は真っ先に藤堂湊へ、次にレーダーみたいに画面へ――すでに破解され、内容が晒されたファイルへ突き刺さった。
「湊!」
声は裏返り、怒りと恐慌が剥き出しだった。
「やっぱり遅かった! 部下は何をしてるの! どうしてこんなものを――」
言葉が途切れる。
藤堂湊が答えるより早く、机の向こうから小さな影が立ち上がったからだ。
冬木澪が苺味のピンクのガムを口へ放り込み、頬を膨らませる。大きな泡を、ぷくり。
「ぷ」
泡が弾け、小さな鼻先に少しだけ粘りついた。
指で拭い、どこか退屈そうな目つきで、怒気を纏った女を見た。
そして、指先で自分を示す。
「私がやった」
一言で、空気が凍った。
飛び込んできた女は藤堂湊の母、高瀬梅子に違いない。
高瀬梅子は停止したみたいに固まり、冬木澪を頭のてっぺんから足元まで、じっくり値踏みする。
小柄で、せいぜい160センチそこそこ。すっぴんの童顔、大きな目。鼻先にはガムの痕。
ゆるいパーカーに、色落ちしたジーンズ。年季の入ったキャンバススニーカー。髪は雑に束ね、前髪が数本落ちている。
――サボり学生、いや。下手をすれば高校生。
高瀬梅子の驚愕は、極端な滑稽さと侮蔑に置き換わった。整えられた眉が跳ね上がり、口紅の唇から吐き出される言葉は毒針みたいに冷たい。
「……あなた?」
鼻で笑い、藤堂湊へ向く。
「湊、何の冗談?」
「藤堂グループの社長室が、いつから託児所になったの? その毛も生えてない未成年、どこから連れてきたの。警備は? 今すぐつまみ出しなさい。絨毯を汚したら払えるの?」
未成年。
冬木澪はその言葉を胸の内で転がしながらも、声を荒げない。
ゆっくり数歩進み、冷めた目で見返す。
「さっき、あなたの息子が私に頼み込んだときは、年齢なんて気にしてなかったけど」
声は軽い。だが、一音も曖昧じゃない。ガムを噛む頬が、もごもごと動く。
「……口をきく権利があると思ってるの? 躾のなってない――」
「警備! 警備! この育ちの悪い小娘――」
高瀬梅子が声を荒げかけた、その瞬間。
藤堂湊が静かに一歩前へ出て、冬木澪を背に庇った。声は平坦だが、逆らえない硬さがある。
「母さん」
「冬木さんは俺が招いた専門家だ。敬意を払ってくれ」
「専門家? こんな子が?」
高瀬梅子が指を突きつけ、信じられないと声を尖らせる。
「湊、あなた――」
「唯一なんだ」
藤堂湊が遮る。母の目を真っ直ぐ受け、退かない。体はわずかに斜めに、無言の防壁になる。
「ファイルは開いた。いま必要なのは中身で、口喧嘩じゃない」
「母さん。こんな勢いで来たってことは、このファイルの重さを知ってるはずだ」
「当たり前でしょ! あれはあなたの父親の――藤堂家のもの!」
「こんな生意気な小娘のために、母親に逆らう気? 湊、あなた良心はないの!」
怒声が社長室の外へ漏れそうなほど響く。
室内が、しんと静まった。
藤堂湊は言葉を失い――その背後から、冬木澪の冷えた声が落ちる。
「藤堂湊。協力、終わり」
踵を返した冬木澪の手首を、藤堂湊が掴んだ。強くない。だが、離れない。
「誰が決めた」
