第3章
「いたっ……いたい……!」
星野結花は目尻を赤くして、目の前の男を見上げた。声は思わず甘くなる。
新山晃は骨ばった指を引っ込め、鼻で笑う。――やけに繊細な女だ。
「産め。選択肢はない」
強硬な態度を隠しもせず、ティッシュを一枚抜き取って結花のほうへ投げた。
星野結花は涙を拭い、鼻をすすりながらも意地を張る。目の前の、権力をそのまま形にしたような男を睨みつけて言った。
「嫌! 私まだ22だし、仕事だってあるの!」
新山晃は伏し目がちに、強がりと怯えが入り混じったその瞳を覗き込む。
「世界中がお前の妊娠を知った。腹の子が俺だと公表してやれば、素直になるか?」
「……っ」
脅しだ。分かりやすい、乱暴な脅し。
「新山晃だから何よ!」結花は悔しそうに声を荒らげた。「私、あんたのことなんて知らないのに、どうやって子ども産むの!」
「……あの夜は違っただろ」
新山晃の目に、わずかな戯れが浮かぶ。
「ズボン上げたら知らん顔。そういう癖は直せ」
「最低!」
星野結花が押しても、男はびくともしない。細い力は、ただ空を切るだけだった。
コンコン。
医師がドアを叩く。
「入れ」
新山晃は手を上げ、結花に背を向けた。
「産まない! この子いらない!」
星野結花は入ってきた医師に縋るように叫ぶ。
新山晃は窓の外の夜を見つめた。――言うことを聞かない。
「星野さん、それは……難しいです」医師は困ったように首を振る。「体質が冷えやすい。中絶をすると……今後、妊娠が難しくなる可能性があります」
星野結花の赤い瞳が大きく見開かれた。
新山晃の顔に表情はない。医師の言葉が真実かどうかは分からない。だが、結花がもう一度「いらない」と言ったら、自分が抑えられないことだけは分かった。
医師は薬を机に置き、静かに去っていく。
星野結花は俯いた。悔しさとやるせなさが喉の奥で絡む。顔色は少し青白く、細い指が、平らな下腹にそっと触れた。
――妊娠してる。
しかも医師は言った。これが、唯一のチャンスかもしれないと。
彼女はずっと、自分の子どもを望んでいた。仕事はやり直せる。でも子どもは――一度きりかもしれない。
星野結花はゆっくり顔を上げ、男の背中を見つめた。
新山晃の感情のない声が、冷たく落ちる。
「心から望んで産め。そうでないなら、望ませてやる」
つまり――望もうが望むまいが、産め。
星野結花は指を握りしめ、まつげを震わせながら言った。
「私……」
「何だ」
新山晃がゆっくり振り返る。――従うなら、何でも与える。そんな目だった。
「この子……産む」
ぽとり。涙が手の甲に落ちた。
新山晃の目に、わずかな揺れ。
――物分かりがいい。
しばらくして、新山晃は歩み寄り、結花の顎を持ち上げると、ティッシュで涙を拭った。
「俺と帰れ。無理をするな」
「こ、子どもは産むって言ったけど、あんたの家に行くとは言ってない!」
星野結花は警戒して首を振る。
「お前が俺の子に何を食わせてきたか、自分で分かってるだろ」
薄い唇が淡々と動く。
星野結花は数秒だけ、気まずそうに目を逸らした。
――知らなかったんだもん。妊娠。
「結婚しろ」
新山晃は結花の目を見て、短く言い切った。
「……は?」
星野結花はソファから跳ねるように立ち上がる。「け、結婚?」
一方、新山晃は落ち着き払っていた。
「俺は、自分の子が正式な家族として認められないなど許さない」
星野結花は目を丸くする。
「わ、私……」
新山晃だ。あの新山晃。
結婚したら――いわゆる、母親が強くなるやつ……?
「産むと決めたなら、結婚するしかない」
新山晃は珍しく説明した。「最善で、唯一の方法だ」
星野結花は内心でぐるぐる悩む。
この氷みたいな男、乱暴で、どう暮らすのよ。
でも結婚しなければ子どもが肩身狭い? それにこの男、芸能界ごと潰しそうだし。
――でも金持ちって家に帰らないって言うし。新山晃みたいな大富豪なら、なおさら……?
「俺は気が短い」
新山晃は億単位の交渉より疲れた顔で言う。「3」
「け、結婚する!」
星野結花は反射で叫んだ。「結婚! 同意!」
「昭介」
新山晃は即座に外へ声をかけた。
「社長」
秘書の山口昭介が入ってくる。
「ま、待って! 条件がある!」
星野結花はしゃがみ込み、恐る恐る見上げた。
新山晃は結花を一瞥し、山口昭介を指さす。
「条件は彼に言え」
金の話だと思ったのだろう。そう言い捨てて去ろうとする。
「あなたに言うの!」
星野結花は立ち上がった。「結婚したら、あなた……私の旦那でしょ?」
新山晃の足が止まる。
泣いた後の、柔らかい声。
――旦那。
「言え」
新山晃は振り返った。
「……隠し婚にしよう」
星野結花は真っ直ぐ目を見た。「公表しないで」
できちゃった婚なんて、余計な面倒を背負いたくない。二か月前の夜――村井家の偽物のお嬢様に嵌められた。まさかドラマみたいな“本物と偽物”の茶番が、自分の身に降ってくるなんて。
本物のお嬢様なんて、誰でもなれるものじゃない。
でもこの権力者と結婚すれば、子どものために守ってくれるかもしれない。
新山晃は眉を上げた。
隠し婚?
世の女がどれだけ自分に嫁ぎたがっていると思っている。自分から結婚を口にしたのに、拒んだ挙句、今度は隠せと?
――この女、俺が父親だってこと忘れてないか。
星野結花は空気の変化を察し、俯いて弱々しく言った。
「あなたもいっぱい条件出したでしょ……私、ひとつくらい言ってもいいよね?」
白い肌。赤いベルベットのドレスが柔らかな曲線を際立たせる。泣き腫らした目は赤く、メイクも崩れているのに、それでも美しさは揺るがない。
舞台の上では、甘く明るい笑顔。
今は、柔らかく可哀想で、守りたくなる顔。
「……いい」
新山晃はなぜか、そう答えていた。
星野結花はほっと息を吐き、感謝の笑みを浮かべる。
「ありがとう!」
