第4章
新山晃は視線を落とし、星野結花の裸足に眉をひそめた。数歩近づき、そのまま抱き上げて連れ出そうとする。だが、彼がわずかに手を上げた瞬間、結花は反射的に身を引いてソファーへ腰を落とした。赤く滲んだ目の縁には、怯えがいっぱいに溜まっている。
――怖がっている。俺を。
「……何するの」
星野結花が、かすれた声で問う。
新山晃は答えない。反抗する暇も与えず、彼女をすくい上げて抱え、部屋を出た。
結花は男の袖をぎゅっと掴み、視線を逸らす。圧が強すぎるのか、それともここ数日の出来事が多すぎるのか。頭が追いつかず、ただぼんやりしていた。
……
山の中腹、新山家。
豪華なのに、どこか落ち着いた雰囲気のリビング。使用人が少し離れて控えるなか、星野結花はスプーンを握ったまま、目の奥に拒絶を隠し切れずにいた。
向かいでは、新山晃が優雅な手つきでステーキを切っている。深みのある瞳がちらりと結花へ向き、結花は慌てて視線を引っ込め、テーブルの料理へ目を落とした。
野菜と上質な肉。健康的で、豪華で――そして、好きなものがひとつもない。
「食べないのか」
低い声が落ちる。
結花はスプーンを置いた。
「……お腹すいてない」
「ぐぅ……」
言い終える前に、腹が正直に鳴った。
新山晃はナイフとフォークを置き、目の奥に不機嫌を滲ませて名を呼ぶ。
「星野結花」
結花は唇を尖らせ、しょんぼりとスプーンで米をつついた。
新山晃は彼女の普段を知っている。こんな大人しい女ではない。長い指を拭きながら、淡々と言う。
「俺に不満があるのか」
「違う!」結花は真顔で首を振った。
「……このご飯に不満がある」
新山晃の眉が上がる。
「何が食べたい」
「ハンバーガー。それから――」
「考えるな。食べられるのはこれだけだ」
有無を言わせない口調。
「お前が食ってきた外の飯は、俺の子に対する虐待レベルだ」
結花は肩を落とし、鼻をすすった。
――ほら。やっぱり。クズ男はクズ男だ。
新山晃は数歩行って足を止め、振り返った。ダイニングテーブルの前で、いじけたみたいに座る結花。甘やかされてきた女が、突然管理されて拗ねている。
しばらく見つめたのち、彼は戻って結花の隣に腰を下ろした。珍しく箸を取り、結花の皿へ料理を取り分ける。
「これを食べろ。明日、ハンバーガーを食わせる」
「……ほんと?」
涙の残る睫毛をぱちぱちさせる。
「嘘はつかない」
結花は迷わず箸を取り、彼が取り分けたものを全部食べた。
新山晃はその素直さに、口角がわずかに上がる。腕時計を一瞥し、立ち上がった。
そして、そのまま部屋を出ていく。
結花は背中を見送り、オレンジジュースのストローを軽く噛んだ。
――この男、ほんと無口。
「奥様、お風呂の準備をいたします」
「うん、ありがとう」
……
一時間後。
星野結花は白いキャミソールのパジャマ姿で、広い寝室をうろうろしていた。逃げるのに必死で、スマホを置き忘れたことを思い出す。
桜井美優は今頃、心配で落ち着かずにいるはずだ。新山晃にスマホを借りて、無事を伝えよう。
結花が廊下の奥へ向かうと、書斎から新山晃と山口昭介が出てきた。
「いた!」結花が駆け寄る。
「スマホ、借りてもいい?」
すっぴんでも可憐な顔。頬は桃のようにうっすら紅い。瞳で見上げられ、しかも白いキャミソール。風呂上がりの艶が、新山晃の眉をひそめさせた。
「何を見てる」
新山晃は山口昭介へ不機嫌に言う。
「失礼しました」
山口昭介は慌てて顔を背けた。
新山晃は手元の書類を山口昭介へ投げるように渡し、結花の手首を掴んで寝室へ引きずり込む。
結花は握られた手首を見て、むっとした。
――スマホ借りたいだけなのに。借りないなら借りないでいいのに、なんでこんな乱暴なの。
新山晃は結花の服に視線を落とし、肩紐をつまんで低く言う。
「お前は人妻だ。こういうのは今後禁止」
結花は目を瞬く。
「これ、用意されたの。ほかに着るものないし」
新山晃は目を伏せた。
「用件は」
「スマホ借りたい」
「助けを呼ぶ気か」
目に不快が浮かぶ。
「Z国で俺から人を奪える奴がいると思うか」
「マネージャーに無事って言うだけ!」
結花は真っ直ぐ答える。
「それに、産むって決めたら逃げない!」
新山晃はスマホを渡し、それ以上は言わなかった。
結花は深呼吸する。
――怒るな。クズ男と同じ土俵に立つな。
十分後、結花はスマホを返した。
「ありがとう」
そのままベッドに潜り、目を閉じる。
新山晃はパソコンを開き、書類の処理を続けた。耳がいい彼には、結花が布団の中でごそごそ寝返りを打つ音が聞こえる。
コンコン。
ドアを開けると、使用人が頭を下げた。
「旦那様、奥様の足首に擦り傷が。お薬を――」
新山晃は救急箱を受け取り、ドアを閉めた。
ベッドへ行き、救急箱を開け、布団をめくって結花の足首を掴む。黙って薬を塗り始めた。
冷たい手。
結花は驚いて新山晃を見つめた。壁灯だけの薄暗い光でも、男の輪郭ははっきり見える。
数分後、結花は足首を引っ込める。
「……あ、ありがとう」
新山晃は綿棒を捨て、低い声で言った。
「女を養うのは初めてだ。不手際は多めに見ろ」
結花はぱちぱち瞬きをする。
――今の、どういう意味? さっきのこと、謝ったつもり?
「……うん」
結花は小さく頷き、布団に潜り込んだ。
新山晃は婚姻届受理証明書を枕元に置く。
結花は手を伸ばし、一枚取った。
「今って、婚姻届……本人が行かなくてもいいの?」
「その言い方で俺に話す気か」
新山晃が、布団の山に向かって言う。
結花は起き上がった。
新山晃が手首を掴もうとすると、結花は反射で避けかける。
「出せ」
感情のない声。
結花は渋々手を差し出す。
新山晃はその薬指に、ダイヤの指輪をはめた。
「……指輪も?」
結花は目を丸くする。
「嫌か」
「好き!」
結花は手を引っ込めた。
「これ、S市のマンション一部屋分じゃない?」
「それを家に換える気か」
新山晃が眉を上げる。
結花は慌てて布団を引き上げた。
「ベビーが眠いって!早く寝ろって!」
「おやすみ!」
そう言って一気に潜り込む。
新山晃は、かすかに笑った。
……
翌朝。
星野結花は“ハンバーガーもどき”を睨みつけていた。
正確には、パンに野菜と肉を挟んだだけの高級サンド。見た目は美しい。材料も高そう。だが――私が食べたいのはこれじゃない。
――嘘つき。
結花は心の中でクズ男を罵る。
新山晃は優雅にミルクを結花の手元へ置いた。
「奥様、お口に合いませんか」
使用人が尋ねる。
結花は救いの神を見たように頷きかけた。
「うん……」
「合わなくても食べろ」
新山晃が淡々と言う。
「おとなしくするなら、おとなしい食事をしろ」
そう言って箸で料理を取り分ける。
結花は目を転がし、口元を押さえてゴミ箱へ突進した。
「おえっ……うっ……!」
昨日の壇上とは違う、わざとらしい“つわり”。新山晃は無表情のまま見ていた。
――だから細い。偏食がひどい。
「おえ……!」
結花はわざと音を大きくする。
使用人が水を差し出した。
「奥様、お水を」
結花は苦しそうに一口飲み、額を押さえる。
「はぁ……しんどい。もう無理。部屋戻るね」
「誰か言わなかったか。お前、演技が下手だ」
新山晃は容赦なく刺し、淡々と命じる。
「戻って来い。言うのは一度だけだ」
結花は指を握りしめ、仕方なく席に戻る。
新山晃は自分で料理を取り分け、結花の皿へ置いていく。
――今は彼の世話になっている身。多少のことは我慢するしかない。
結花は嫌いなものを無理やり数口詰め込み、ミルクを持たされる。
一口飲んでから、結花は言った。
「午後、番組の収録があるの。夜遅くなる」
「妊娠中に外出は不適切だ」
「じゃあ私、家で赤ちゃん放置しろってこと?」
結花は思わず口にした。
――条件が許すなら、この子をこのクズ男の腹に入れたい。
