第6章

山口昭介が控室に入ってくるなり、銀縁の眼鏡を指で押し上げた。

「星野さん。さっきの件、どう処理なさいますか」

星野結花は手にしていた櫛を置く。あの女の顔が脳裏をよぎった瞬間、瞳の温度がすっと落ちた。

その変化に気づいた桜井美優が、さっと口を挟む。

「私に任せて。大丈夫」

だが山口昭介の視線は、最後まで星野結花から外れない。彼が従うのは、星野結花の判断だけだ。

「お願い。美優に任せるわ」

「承知しました」

山口昭介は小さくうなずき、桜井美優を伴って控室を出ていった。

———

十分後。

桜井美優が戻ってきて、後ろ手にドアを閉める。

「結花、旦那さん当たりじゃん」

椅子に腰を下ろすなり、にやにやと野次馬の顔。

「仕事にも協力的だしさ。しかも結花のこと『星野さん』って呼ぶの、なんか良くない?」

「ぶっ……!」

星野結花は水を噴きそうになり、慌ててティッシュで口元を押さえた。

「ちょっと、私が他人じゃないのに何動揺してんの」

桜井美優は声を立てて笑う。

「見た目も真面目そうで、いい感じ!」

星野結花は気まずそうに口元を拭き続ける。

「それ、旦那じゃ——」

そのとき、控室のドアが開いた。

山口昭介が顔を覗かせ、星野結花に視線を向ける。

「星野さん。お時間です。出発しましょう」

「義弟くん、そんな他人行儀にしなくていいって」

桜井美優が馴れ馴れしく近づき、ペットボトルの水を差し出す。

「はい。お水。ところで、貴姓は?」

「桜井美優、彼は私の——」

「またまた、私の前で隠さなくていいって」

分かった顔でうなずく桜井美優を、山口昭介は取り合わない。

「星野さん、どうぞ」

「あとでちゃんと話す」

星野結花はバッグを掴み、山口昭介の後ろに続いた。

———

駐車場。

黒いセダンの後部座席で、新山晃は黒曜石のような瞳を伏せ、腕時計に目を落とす。ネクタイを緩め、窓の外へ視線を投げた。

——待つのが、嫌いだ。

運転手がルームミラー越しに告げる。

「新山社長、奥様が出てこられました」

星野結花は周囲を素早く見回し、盗撮がないのを確認してから助手席に乗り込む。サングラスを外し、ふっと息を吐いた。

「昭介兄さん、後ろ座って」

にこっと笑って言うと、新山晃の目が冷えた。

——昭介兄さん?

何のつもりだ。

「こっちに座れ」

命令口調。拒否の余地はない。

「え、ここでいいよ。だって——」

「二度は言わない」

星野結花は肩をすくめ、観念したように助手席を降りると、後部座席へ滑り込んだ。

「……で、なんで迎えに来たの?」

気まずさをごまかすように話題を探す。

新山晃は答えない。代わりにペットボトルを開け、差し出した。

「飲め」

「喉、渇いてない」

星野結花が手を振って窓の外へ顔を向けた瞬間、刺すような視線が飛んでくる。

——俺が水を渡すなんて、いつ以来だ。

拒否するのか。

星野結花は背筋に冷気を感じ、慌てて受け取って一口。

「うん、おいしい!」

そして、氷みたいな横顔にいたずらっぽく笑いかける。

「社長様がくれるお水って、なんか格別においしいね」

新山晃は黙ったまま。だが眉がわずかに上がった。

——効いた。

星野結花は内心で勝ち誇る。

芸能界で生きてきた。顔色も、微表情も読む。氷山くらい、いずれ握ってみせる。

「昭介兄さん、どこ行くの?」

前方の山口昭介に声をかけると、横から冷たい声が刺さった。

「彼を兄さんと呼ぶな」

新山晃が星野結花を見据える。

「お前は人妻だ」

「それ、関係ある?」

首をかしげたあと、妙に素直にこくこくとうなずく。

「はい。社長様のお言葉、覚えました!」

新山晃は手元のスマホを差し出した。

「お前のだ」

「ありがとう」

星野結花は受け取り、にこにこしながら覗き込む。

「私がスマホ落としたって、なんで分かったの?」

「勘だ」

珍しく返事が返ってきて、星野結花は目を瞬く。

「ふーん。で、どこ行くの?」

新山晃は前を見たまま黙る。

「奥様、向かう先は——」

山口昭介が答えかけたが、新山晃が遮った。

「家だ」

低く澄んだ声。

「ふーん」

星野結花はスマホを開き、動画を流し始めた。音量は小さい。けれど新山晃にはノイズだった。

新山晃の指が止まる。次いで、星野結花の前に手を伸ばし、人差し指で下へ、二度。

星野結花はぱちぱちと瞬く。

——え、手を繋げってこと?

外に人いるのに?

でも、これ以上この氷の顔が不機嫌になるのは困る。

車に乗せてもらってる身だ。頭を下げるしかない。

星野結花は手を差し出し、新山晃の指と絡めた。

新山晃の指が、ぴたりと止まる。

柔らかい小さな手の感触。掌に収まる温度。

耳の付け根が、じわりと熱くなる。

——こいつ、何が目的だ。

横目で探るが、星野結花は何事もない顔で動画を見ている。

山口昭介はミラー越しに二人の手を見て、声を殺して笑い、鼻先を軽く撫でた。

十分後。

星野結花はふわぁ、と欠伸をして窓にもたれ、目を閉じた。

新山晃は片手でノートパソコンの資料をめくっていたが、ふと見ると星野結花は眠っている。パソコンを閉じ、そっと腕を回して肩へ寄せた。

星野結花は無意識に抱きつき、唇をもごもごさせる。

「……ハンバーガー……」

新山晃は目を伏せる。

「新山社長」

運転手の声が上がりかけた瞬間。

「黙れ」

低く切り捨てる。

———

星月ヶ浜に到着。

星野結花はゆっくり目を開け、新山晃の左肩に濡れた跡があるのを見つけて固まった。

——私、よだれ……!

「新山社長、ごめん! わざとじゃない!」

必死に謝ると、新山晃の瞳は読めないまま、淡々と返ってくる。

「新山社長?」

そして続けて、冷たく言い放った。

「籍も入れて、腹には俺の子。新山社長呼びが妥当だと思うか」

星野結花は瞬く。試すように、短く呼んだ。

「……晃?」

「あなたと呼べ」

有無を言わせない口調。

星野結花は眉を上げる。

新山晃はネクタイを緩め、星野結花の平らな下腹を一瞥する。

「俺が聞きたいわけじゃない」

声は低く、揺るがない。

「息子が聞きたいんだ」

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