第1章
もう七日間、息子の正一に会えていない。
今日は、あの子の七歳の誕生日だ。正一がいちばん好きなヒーローのケーキを予約して、五時間も待った。けれど夫の悠人――K市マフィア一族の第二継承者――には、何度かけても電話がつながらない。
夜十時になって、知らない番号からショートメッセージが届いた。
――彼は北区の屋敷にいる。
北区の屋敷。そこは喜代美の縄張りだ。悠人の亡き兄の未亡人。
私は車を飛ばした。だが北区の屋敷は門が固く閉ざされ、警備が私を門前で止める。
「申し訳ございません、奥様。悠人様のご指示で……今夜はプライベートな家族の集まりですので」
家族の集まり?
実の母親である私を締め出しておいて、家族だなんて――?
鼻で笑い、温室脇の暗証ロックを力任せに壊して、私は屋敷へ潜り込んだ。
廊下を抜けた先、床まで届く大きな窓の向こう。
喜代美がソファに気だるげにもたれ、正一はその胸にすっぽり収まるように寄り添っていた。
そして悠人は、私が見たこともないほど柔らかな眼差しで二人を見つめている。
正一が、きらきらと目を輝かせながら、精巧な拳銃を持ち上げた。
「ママ、これ本物? 引き金、引いていい?」
ママ?
誰のことを呼んで――。
私は勢いよく扉を押し開けた。
「正一!」
正一はびくりと身をすくめ、一歩下がる。身体の大半を喜代美の背中に隠した。
「香苗」
悠人が眉をひそめ、素早く喜代美と正一の前に立ちはだかった。
「なぜここにいる?」
「私の息子を返して!」
駆け寄って正一の腕を掴もうとした瞬間、悠人の手が私の手首を鉄のように締め上げた。
「私はあなたの母親よ! あの女をなんて呼んだの?!」
崩れ落ちそうになりながら正一を見る。正一は目尻を赤くして、叫ぶように言った。
「違う! ママじゃない! あなたは怒ってばっかりで、ピアノやれって、算数やれって、嫌なことばっかり! 喜代美は銃をくれるんだ! あの人のほうが本当のママみたい! あんな嫌いな家、帰りたくない!」
頭の中が、ぶうん、と音を立てて真っ白になった。
この一族の『周縁』にいる子どもは、少しの失敗で命を落とす。だから私は必死だった。血の匂いのする世界から正一を遠ざけたくて。なのに――私の必死さが、あの子を他人の腕の中へ押しやる理由になっていた。
悠人は冷えた顔のまま、脇のローテーブルの引き出しから書類を引き抜き、私の顔へ叩きつけた。
「これを見ろ、香苗」
紙がはらはらと床へ散る。
震える指で一枚を拾い上げる。『全権監護権移転合意書』。
そこには、私の署名があった――三か月前、「家族の海外税務対策」だと言われて、悠人に急かされ、フランス語の書類を束でサインした。その中の一つ。
「……嘘でしょ」
顔を上げると、声が掠れた。
「私を騙して、これに署名させたの?」
「正一はもう喜代美のものだ」
悠人の視線は氷のように淡い。
「こいつを外へ放り出せ」
次の瞬間、どこからともなく二人のボディガードが現れ、私の身体を乱暴に引きずって門の外へ投げ捨てた。ぬかるみに顔が落ち、泥が口に入る。
どうやって車を運転してアパートへ戻ったのか、覚えていない。
数時間後。悠人が帰宅した。
「……どうして」
私はソファに座ったまま、動けなかった。
「あなたは昔、私を助けて、結婚して……全部、嘘だったの?」
悠人はネクタイを乱暴に外し、眉間に皺を刻む。
「自分を過大評価するな、香苗。昔、兄貴は命令で喜代美と政略結婚した。俺は引くしかなかった。だが今でも俺は彼女を愛している」
言葉を切り、淡々と続ける。
「数年前、家族は地位を固めるために三代目の血を必要とした。だが喜代美は事故で、もう子どもを産めない身体になった」
一拍。
「お前は『主人公』に救われて凡庸な人生を変えたかった。俺は、背景がなくて、扱いやすい『質のいい子宮』が必要だった。それだけだ。今はもう、仕事は終わった。正一は喜代美の欠けたものを埋め、彼女の立場を盤石にした。それが、この一族に対するお前の唯一の貢献だ」
言い終えるより早く、玄関のチャイムが鳴った。
宅配便だ。
悠人は自分で受け取り、分厚いクラフト封筒を私の足元へ放った。中から一枚の書類が滑り出る。
出生証明。
正一・悠人・喜代美。
そして「母」の欄には、はっきりと――喜代美。
私が存在した痕跡を、彼らは全部、消した。
そのとき携帯が鳴った。出産時の主治医、佐藤からだ。
「香苗様……」
受話口の声は、痛ましげに沈んでいた。
「当時、家族病院で難産による出血があり、悠人様の同意書に基づいて、赤ちゃんを取り上げただけでなく……子宮の全摘出も行いました。てっきり、もうご存じだと……」
携帯が、指先からするりと落ちて床に転がった。
私は息子を奪われただけじゃない。もう二度と、母親になる権利まで奪われていた。
夜が明けて、家族の顧問弁護士から電話が来た。
「奥様。『自発的に、永久に面会権を放棄し、守秘する』という合意書に署名してください。もし訴訟を選べば――家族裁判のしきたりでは、明日の太陽は拝めません」
私は死人みたいに正一の部屋へ入った。
昨夜まであったレゴの玩具も、ヒーローのポスターも、私が買った誕生日ケーキも。全部、使用人にきれいさっぱり片づけられている。
心が死ぬって、こういうことなんだ。
「……好きにすればいい」
用意されていた出国の合意書に、私は名前を書いた。扉へ向かい、ノブを握る。
だが、回しても回しても――扉はびくともしない。
外から執事の声がした。
「申し訳ございません、奥様。悠人様のご命令でして。奥様の『情緒が完全に安定し』、外部に助けを求める可能性が完全に失われたことを確認してからでなければ、移送はできません。それまでは、どこにも行けません」
――私は、監禁された。
