第2章
囚われていた三日間は、息が詰まるほどの死の静けさだった。スマホは取り上げられ、ドアの外には警備の男が二交代で二十四時間、絶えず見張りに立つ。
トイレに行くだけでも、外から重たい革靴の足音がのそのそと響いてきた。
四日目の夜、私は化粧台を勢いよく持ち上げ、そのまま大理石の床へ叩きつけた。
「バン」と乾いた音が弾ける。
次の瞬間、ドアが乱暴に開いた。
床に散った陶器の破片のうち、いちばん大きい欠片を拾い上げ、迷いなく左の手首へ走らせる。
死にたいわけじゃない。ただ、自分がまだ生きていることを証明したかった。
鋭い痛みとともに鮮やかな赤がにじんだ。けれど傷口を確かめる間もない。屈強な男が私の腕をねじ上げ、乱暴にカーペットへ押さえつけた。もう一人が手慣れた動きで救急箱を持ってきて、ガーゼを手首にきつく巻きつける。
五日目。ようやく悠人が姿を現した。
彼は伏し目がちに私の手首の包帯へ視線を落とし、口の端を冷たくつり上げる。
「香苗。おまえはいつも弱くて、芝居がかってる。上流のご令嬢が愛情を奪い合うときの小細工みたいな真似をされても、滑稽なだけだ」
「弱い?」私はソファの肘掛けに手をついて立ち上がり、目を赤くして怒鳴りつけた。
「私ひとりで、指が裂けるみたいな痛みに耐えて正一を産んだ! 私ひとりで、何度も高熱の夜に抱えて救急へ駆け込んだ! あんたたちみたいな人殺しのマフィアの影の中で暮らしながら、それでも世界は素晴らしいんだって必死で言い聞かせてきた! それが弱さ?!」
堰を切った涙が落ちる。私は彼の胸を指さした。
「私がピアノを練習させたのも、算数をやらせたのも、愛してるからよ! 七歳の息子の手にあるのが絵筆じゃなくて、あんたたちの忌々しいグロックだなんて嫌なの! 将来、路上の撃ち合いで死なせたくない!」
悠人は無表情のまま、私の手を払った。
「だからおまえは、鈴山家の女主人にはなれない。
この世界で情なんて一文の価値もない。正一が学ぶべきは引き金の引き方だ。モーツァルトを弾くことじゃない。喜代美なら、あいつに最高の権力と、残酷な生存の作法を授けられる。おまえは――正一を、おまえと同じ臆病者にするだけだ」
胸の奥が、音もなく潰れた。
「行かせて」目を閉じる。声が掠れる。
「三日後、俺の私兵に送らせる」悠人は背を向け、ドアへ向かった。
「条件は二つだ。二度と正一の前に姿を見せないこと。外では口を閉ざし、ここでのすべてを忘れることだ。メディアでも警察でも、ひと言でも漏らしたら――保証する。おまえはハドソン川の底のセメント樽みたいに、永遠に消える」
ドアがまた、内側から鍵をかけられた。
三日後の夜。N市には土砂降りの雨が落ちていた。
スーツケースを提げた私は、この街で積み上げてきたものを全部奪われ、雨にコートを一瞬で打ち抜かれる。
ポケットの中で、さっきボディガードから返された古いスマホが震えた。
悠人からだ。
「香苗。明日、鈴山はホテルを貸し切って、正一を三代目の後継者として正式に発表する。喜代美は母親として、家の長老たちの敬礼を受ける。……おまえは、これから先――正一の実母として、この世に存在しない」
「ツー、ツー、ツー……」
通話が切れた。直後、画面が点いて、ニュースの速報が飛び込んでくる。
鈴山、明日「継承者」授封式。
添えられた写真には、悠人と喜代美、そして仕立てのいい小さなスーツを着た正一。屋敷の階段に並び、上品に笑っている――まるで、血のつながった家族は彼らのほうだと言わんばかりに。
涙が頬を伝った。
私は画面を消し、スマホごと――この七年の馬鹿げた歳月ごと、街角のゴミ箱へ投げ捨てた。
骨まで刺す寒風の中、目的もなくブルックリンの裏路地へ足を踏み入れる。
角を曲がりかけた、その瞬間。
ゴミ箱の背後の影から、かすれた震える声が、ほんのわずかに漏れた。
「……たすけて」
足が止まる。明滅する街灯の光を頼りに覗き込むと、泥水の中に小さな影が丸まっていた。びしょ濡れのまま、ぎゅっと目を閉じ、朦朧とした口がひとつの言葉を繰り返す。
「……ママ……」
