第3章

 路地裏の陰にもう一歩踏み込んだ瞬間。泥水にうずくまる子どもの顔を確かめる間もなく、頭上の光がふっと消えた。

 次の瞬間、麻袋が乱暴に頭へとかぶせられる。何本もの手が腕を挟み込み、そのまま車内へ引きずり込まれた。必死に暴れると、腹に重たい一撃。続けて首筋に鋭い痛みが走り、意識がすとんと闇へ落ちた。

 目を覚ますと、両手は鉄椅子にきつく縛り上げられていた。

 眩しさに目が慣れ、正面にいる三人の輪郭がはっきりする。

 喜代美。悠人。

 そして七歳の正一が、喜代美に甘やかに抱き寄せられていた。

「この一族に七年もいたのよ、香苗。知りすぎたの。知られたら困ることまでね。致命的な火種だわ」

 喜代美は分厚い書類の束を私に叩きつけた。

「見なさい。『自白書』よ。鈴山の名義だけの会社を使って、八億円を丸ごと抜いて、オフショア口座へ飛ばした――その手口が細かく書いてあるわ」

 彼女は笑う。

「警察でも、調査局でも、メディアでもいい。家のことを一文字でも喋ったら、これが即座にN市の検察の机に届く。保証するわ。ライクス島の女子刑務所で、骨まで腐ることになる」

 怒りに目を吊り上げた、その瞬間だった。

 屈強な男が二人、前に出る。一人が私の喉を締め上げ、もう一人が右手の親指を無理やりこじ開けた。赤い朱肉に押しつけられ、次いで書類の末尾へ、ぐしゃりと指紋が叩きつけられる。

「卑怯な……悪魔ども……!」

 歯を噛みしめて吐き捨てた、そのとき。

 正一が、喜代美の背中から一歩、前に出た。

 何度も私の首に腕を回し、寝る前のキスをねだった七歳の男の子が、何の前触れもなく――私のスカートの裾へ、ぺっと唾を吐いた。

「うそつき」

 幼い声が刃みたいに耳を裂く。

「前は、ぼくのこと好きって言ったのに。あれ、ぜんぶウソだったんだ。ほんとは、うちのお金を盗みたかっただけだろ」

 喜代美は満足げに正一の金髪を撫でた。

「よく言えたわ、私の小さな勇士。あなたはきっと、K市でいちばん偉大な首領になる」

 悠人が影から出てきて、低い声で言う。

「もう指は押させた。……行かせろ」

「行かせる?」

 喜代美は鼻で笑い、コートのポケットから拳銃を引き抜いた。冷たい銃口が、私の額に押しつけられる。

「喜代美!」

 悠人が手を伸ばし、銃身を押さえた。

「正一を産んだ。それだけは事実だ。撃つな。子どもの前で、絨毯を汚すな」

 喜代美の目に嘲りが浮かぶ。

「まあ。あなた、まさかこの『産む道具』に情でも湧いたの?」

 悠人は表情を変えず、手を離した。

「ただの、使い物にならない器だ」

 喜代美は顔を横へ向け、正一にだけは優しく微笑む。

「聞こえた? スウィート。あなたの未来を盗もうとした女、憎い?」

 正一が、私を睨み抜いた。

「きらいだ」

 一文字ずつ、叫ぶ。言葉が一つ落ちるたび、胸の肉が削がれていく。

「ぼくのこと、しつけるとき、すっごくこわかった! あんな役に立たないこと、むりやり勉強させて! 喜代美ママの言うとおりだ、おまえはぼくらがうらやましくて、わざといじめたんだ! さいていの女だ! 追い出されて当たり前だ! ぼく、おまえに産まれたくなかった!」

 心臓が、止まったみたいだった。

 涙を流す力さえ、残っていない。

 私は尊厳という尊厳を剝ぎ取られ、地下室の外へ投げ捨てられた。傷だらけの身体を引きずり、気づけばブルックリン橋の上に立っていた。

 眼下の東川は、唸りを上げて流れている。黒い水面は、痛みを丸ごと呑み込む巨大な口みたいだった。

 すべてを失った。いまの私にとって、死だけが解放に思えた。

 欄干をまたぎ、目を閉じる。深淵へ落ちる準備をして――指をほどこうとした、その刹那。

 橋脚の下、闇の隅から。

 かすかすの、泣き声が聞こえた。

 昨夜の男の子だ。捨てられた段ボールの中で、身を丸めている。

 泥と傷だらけの小さな手を、空へ伸ばし――か細くつぶやいた。

「ママ……置いてかないで……」

 熱い涙が、雨水と混ざって頬を伝い、ぼたぼたと落ちる。

 私は、私の死を願う実の子を失った。それでも神は、私をすぐ地獄へ落とさなかった。

 たぶん――世界に捨てられたこの子を、私の目の前へ差し出したのだ。

「行かない。ママはここにいる」

 乱暴に涙を拭い、橋を駆け下りる。コートで震える身体を包み込み、勢いのまま抱き上げた。振り返りもせず、狂ったように最寄りの病院へ走る。

 一方そのころ、M区。金と光で飾り立てられたホテルでは、盛大な後継者の授封式が粛々と進んでいた。

 フラッシュが雨のように瞬く。

 豪奢なイブニングドレスを纏った喜代美が、正一の肩に手を置き、耳元へ身を寄せて微笑む。

「今日から、あなたが私の小さな首領。覚えておきなさい。あの女は、最初からあなたの母親じゃなかったのよ」

 救急外来の白い蛍光灯が、私と男の子を容赦なく照らす。

 担架が運び込まれ、救急医がバイタルを確認しながら声を張り上げた。

「そちらの女性、この子とはどういうご関係ですか」

 私は小さな手を、きつく握りしめた。

「……この子の母親です」

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