第4章

 私は少年のそばについて、丸三日を過ごした。

 そのあいだに、彼のことをすべて知った。

 早川聡。六歳。孤児院から逃げ出してきた子だった。

 村田が健康診断の結果を手に、こちらへ歩いてきた。視線の奥は痛みで濁っている。

「重度の栄養失調、肺の感染。それもひどいが……いちばん酷いのは古傷だ。鎖骨のあたりに煙草の火傷、背中にはベルトで打たれた痕が何本も……。この子は長い間、想像を絶するいじめを受けてきた」

 言葉が耳に入った瞬間、心臓を手で握りつぶされたみたいに息が詰まった。

 私は、聡を引き取ると決めた。

 悠人は確かに、N市にある私名義の共同口座をすべて凍結した。けれど、彼は知らない。結婚前、祖母の遺した信託基金に八千万円を移していたことを。その金は、ヤクザのマネーロンダリングとは完全に無縁だった。

 私はすぐに家庭裁判所に強い弁護士を雇い、児童相談所と連携して特別養子縁組の手続きを一気に進めた。

 二か月後、私は聡を連れてN市を離れ、S市の静かな海辺の町へ移り住んだ。

 その金で小さな庭付きの木造の家を買い、町の中心で店舗を借りた。そして「新頁」という名の独立系書店を開いた。

 過去をきっぱり終わらせて、新しい人生を始める――その願いを、店名に込めた。

 来たばかりの聡は、店の隅のソファで膝を抱えたまま、私に自分から話しかけようとしなかった。夜になると決まって深い悪夢に沈み、冷や汗を浮かべて叫びながら飛び起きた。

 そんなとき私は、すぐに彼の部屋へ駆け込んで、ぎゅっと抱きしめた。背中をとん、とん、と優しく叩きながら、何度も耳元で繰り返す。

「大丈夫、聡。ママがいる。何があってもここにいる。もう誰にも、あなたを傷つけさせない」

 毎日のように寄り添い、なだめつづけるうちに、彼の中の分厚い氷は少しずつ溶けていった。

 信じることを覚え、外へ出るときは自分から私の手を握った。私が棚を整えていると、小さな踏み台に乗ってコーヒーを淹れてくれることもあった。

 ある何でもない夜、彼は怯えがちな、それでも必死に真面目な声で言った。

「ママ、おやすみ」

 一年後、聡は町の小学校に入学した。

 成績はいつも上位で、放課後にはランドセルを背負ったまま店へ駆け込んで、新刊のラベル貼りを手伝ってくれた。

 ある日の午後、彼は興奮した様子でランドセルからクレヨン画を取り出した。青いワンピースの女の人が、小さな男の子の手を引いている。背景は真っ青な海と、「新頁」と書かれた看板の書店。紙のいちばん上に、拙い文字でこう書かれていた。

『ぼくとママの家』

 その日の夕方、聡が私にコップを渡そうとしたとき、視線が私の左手首に止まった。昔、自分を傷つけようとして残した傷痕。

 彼は小さな手を伸ばし、指の腹でその盛り上がった跡をそっと覆った。そして澄んだ茶色の瞳で私を見上げる。

「ママ、前に……すごく、すごく悲しいことがあったの?」

 私はわずかに息を飲み、彼の温かい手を握り返した。

「うん、あったよ。だけど、ずっと昔のこと。いまは聡がママのそばにいてくれる。それだけで、どんなときより幸せ」

 聡は勢いよく私の胸に飛び込んできて、細い腕で首にしがみついた。

「ぼくも幸せ。ママ、ずっといっしょにいる」

 日々は静かで、日だまりみたいな温度のまま流れていった。

 三年ものあいだ、私はほとんど本気で信じていた。あの暗い影は、完全に埋め終わったのだと。

 ――あの、晩秋の夕暮れまでは。

 いつものように店で帳簿を片づけ、ふと顔を上げた。店内のテレビでは夜のニュースが流れている。

 経済ニュースの映像が唐突に切り替わり、アナウンサーの声が重くなる。

「ここでN市からの独自情報です。国内最大級のK市系組織の一つ、鈴山家族が本日、正式に権力移譲を完了しました。鈴山悠人氏が新たな首領として確認され――」

 手の中のマグカップが、するりと滑り落ちた。

 画面の悠人は冷えきった眼差しで、誰にも屈しない顔をしていた。喜代美がその腕に絡みつき、誇示するような傲慢な笑みを浮かべている。そして二人の前に、ひとりの少年が立っていた。

 十歳になった正一。

 たった三年。雷雨の夜に私の胸に潜り込んで震えていたあの子は、もうどこにもいなかった。顔から幼さは削ぎ落とされ、視線は氷みたいに冷たい。悠人と同じ匂いの残酷さと荒々しさが、その奥に透けて見えた。

 その夜、私はテレビを消し、寝室に鍵をかけたまま朝まで一睡もできなかった。

 翌朝、書店の前に配送トラックが止まり、配達員が小包を差し出した。

 中に入っていたのは、鈴山家族の家紋が金箔で押された黒い招待状。

「鈴山家族十周年記念式典 兼 継承者確認晩餐会」

 会場はM区のホテル。

 さらに、招待状の内側から一枚の紙片がふわりと落ちた。悠人の字だった。

「正一の最後の姿を見たいなら来い。これがお前の最後の機会だ、香苗」

 指先がかすかに震える。

「ママ、どうしたの?」

 九歳の聡が階段を駆け下りてきた。私の顔色が青いのを敏感に察し、心配そうに服の裾を引く。私の手の黒いカードを見て、首を傾げた。

「お手紙? ママ、遠くに行くの?」

 私は深く息を吸い、しゃがみ込んで、できる限りやわらかく笑ってみせた。

「大丈夫、聡。ママはちょっとだけ、昔いた町に戻らないといけないの。もう死んだはずの過去に、けじめをつけにね。約束する。すぐに帰ってくるから」

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