第1章
若菜視点
「うまくやってるからさ。完璧な隠れ蓑があるんだ」
イヤホンから聞こえてきた夫の声は、自信たっぷりでリラックスしていた。
「何だよ、それって定番の『仕事で遅くなる』って言い訳のことか? おいおい、そんなの誰もが使う手だろ――」
「いやいや、もっといい手がある。俺には勇人がついてるんだ」
息が止まった。手にしたコーヒーカップが震え始める。
「お前の子供かよ? マジで?」
「大マジだ。あいつが協力してくれるんだよ。俺が仕事で遅くなるって言うたびに、あいつがカバーしてくれる。『お父さん、お仕事大変なんだよ、お母さん。だから休ませてあげようよ』ってな。完璧だろ。若菜はあの子の言うことなら何でも信じるからな。まったく気づいてない」
相手の男が笑った。「そりゃ……おい、マジで天才的だな。本当に何も疑ってないのか?」
「ああ、ひとかけらもな。あいつは勇人を完全に信頼してる。だからちょろいもんさ」
カップが指から滑り落ちた。茶色い液体がキーボードに広がっていくのを、止めることもできずにただ見ていた。胸を押し潰すような重みで息が苦しいのを除けば、体中の感覚が麻痺してしまっていた。
勇人。私の六歳になる息子。あの子が、佐藤翔太が私に嘘をつく手助けをしていたなんて。
どれくらいの時間そうしていたのだろう。やがて私は震える手でヘッドフォンを外した。
すべての発端となったメールが、まだ画面に開かれたままだった。さっき聞いたことの意味を理解しようと、私はもう一度画面をスクロールして見返した。送信者の欄は空欄。件名は『あなたは知っている』。メッセージも説明もなく、ただ音声ファイルが添付されているだけだった。
誰がこれを? なぜ今?
受信トレイを必死でクリックして戻り、何か手がかりがないか探したが、何もなかった。そのメールは二十分ほど前に届いたものだった。ちょうどアニメーションシークエンスの作業に没頭している最中だった。迷惑メールだと思って、危うく削除するところだった。
そして今、私は知ってしまった。夫は一年もの間、私を裏切っていた。私の息子が彼を庇っていた。二人して毎日毎日、私の顔を見て嘘をつき、私を馬鹿にしていたのだ。
『若菜はあの子の言うことなら何でも信じる』
佐藤勇人。毎朝私に抱きついてきて、寝る前には本を読んでとせがむ、六歳の息子。この世の何よりも愛している、勇人。
あの子が私に嘘をついていた。佐藤翔太の浮気を手伝っていた。丸一年も。
録音の中の声はまだ続いていたが、もう私の耳には届かなかった。水中にいるみたいだった。世界中が私から切り離されて、私だけがこの瞬間に、真実と共に取り残されたようだった。
夫は浮気をしていた。私の息子はそれを知っていた。私の息子は、それを手伝っていた。
どうやって車を運転して帰ってきたのか、覚えていない。気がつくと、私は家の前に立ち尽くしていた。鍵を手に、赤い玄関ドアを見つめながら、明るく見えるからという理由でこの色を選んだときのことを考えていた。
ドア越しにテレビの音が聞こえる。勇人が一番好きなアニメがやっているのだ。
手がひどく震えて、なかなか鍵穴に鍵を差し込めなかった。
「お母さん!」ドアを開けた途端、勇人が駆け寄ってきた。「お帰り、早いね!」
飛びついてきた勇人を抱きとめ、その小さな体を腕で包み込んだ。リンゴジュースと、お風呂の後にいつも使ってあげるココナッツシャンプーの匂いがした。温かくて、本物で、そして私が自分の人生について知っていると思っていた、そのすべてのように感じられた。
「ただいま、勇人」と私は言った。
「お父さん、リビングにいるよ」勇人はそう言って私の手をつかみ、廊下を引っ張っていった。「早く早く!」
佐藤翔太はソファに寝そべって、携帯電話をいじっていた。私達に気づくと、彼は顔を上げて微笑んだ。
「早いじゃないか」と彼は言った。「どうかしたのか?」
「ちょっと頭が痛くて」嘘はすんなりと口から出た。そして、これがこれから私がついていくたくさんの嘘の、最初の一つなのだと、どこか他人事のように思った。「早めに帰って休もうと思って」
「いい考えだ」彼は私をろくに見もせずに、また携帯に視線を戻した。「だけど今夜は仕事で遅くなる。大きなプロジェクトの締め切りなんだ」
私は罪悪感や動揺の兆候がないか彼の顔をうかがったが、そこにはまったく何もなかった。
「お父さんはお仕事、大変なんだよね」勇人が佐藤翔太の隣のソファによじ登りながら言った。「ね、お母さん?」
録音の中の佐藤翔太の声が、再び頭の中で響いた。『俺が仕事で遅くなるって言うたびに、あいつがカバーしてくれる』
私は無理やり口角を上げて、笑顔らしきものを作った。「そうね。とっても」
夕食には勇人の大好物だからとカレーを作ったが、まったく味がしなかった。
夕食が終わるとすぐ、佐藤翔太は会社に行かなければならないと言い残して家を出た。勇人は玄関に立って手を振りながら言った。「お父さん、お仕事頑張ってね!」
ドアが閉まると、私は廊下で虚空を見つめて立ち尽くした。背後では、勇人がまるでいつも通りの夜であるかのように、もうアニメに夢中になっていた。
「勇人、ちょっといい?」自分の声が思いのほか落ち着いていることに驚いた。「テレビの音、少し小さくしてくれる? お母さん、あなたと話があるの」
「いいよ!」彼はぴょんと跳ねるように駆け寄ってきて、音量を下げた。「どうしたの、お母さん?」
私は彼と視線の高さを合わせるように、その場に膝をついた。「勇人、お父さんって、本当にいつもお仕事で遅いの?」
ほんの一瞬、彼の表情に何かがよぎった。今日までなら、決して気づかなかったであろう変化が。それから、彼はこくこくと力強く頷いた。「うん。お父さんは、すごく大事なお仕事をしてるんだ」
「そう……」喉が締め付けられるようで、かろうじて言葉を絞り出した。「それで、勇人はお父さんを手伝ってあげてるのよね? お母さんに、お父さんはお仕事してるって、教えてくれるの?」
「うん!」彼は得意げだった。「お父さんが言ってたんだ、お父さんを支えるのが大事だって。家族はそうするものなんだって」
なんてこと……。この子は、本気で正しいことをしていると思ってるんだ。
私は手を伸ばして彼の頬に触れた。勇人はいつものように、私の手にすり寄ってきた。「勇人、聞いて。分かってほしいことがあるの。お母さんとお父さんは、もう一緒にはいられなくなるかもしれない。私達、もしかしたら――」
「離婚するの?」私の言葉を遮るように、彼の声が響いた。
「……ええ。たぶん、そうね」
彼は、私が前のめりになりそうになるほどの勢いで、さっと身を引いた。「いやだ! そんなのいやだ!」
「勇人――」
「もし離婚したら、僕はどっちと住むの?」彼の顔がくしゃりと歪んだ。でも、それは悲しそうなのではなかった。「僕、お父さんと一緒に住みたい」
その言葉は、胸に突き刺さり、何か大切なものをえぐり取られたような感覚だった。「なんだって? 勇人、私はあなたの母親よ――」
「そんなの知らない!」彼の声が大きくなる。「僕はお父さんと一緒にいたいんだ! お母さんと一緒に住むなんて絶対にいやだ!」
「勇人、お願いだから、聞いて――」
「いやだ!」彼は本気で床を踏み鳴らした。「お父さんがいい! お母さんじゃなくて!」
私が何か言う前に、彼は二階へ駆け上がっていき、数秒後、寝室のドアが乱暴に閉まる音が聞こえた。
私は膝をついたまま、彼が立っていた場所に向かって手を伸ばしたまま、動けなかった。
その夜遅く、勇人が私に寝かしつけをさせることなく眠ってしまった後、私は寝室でラップトップに向かっていた。
私はグーグルに打ち込んだ。「近くの離婚弁護士」
証拠を集めよう。佐藤翔太の不貞の証拠を見つけ出し、すべてを慎重に記録する。そして離婚を申請し、勇人の親権をかけて戦うのだ。
「まだ六歳なんだ」ラップトップの画面を見つめながら、私は自分に言い聞かせた。あの子は自分が何をしているのか、本当は分かっていない。佐藤翔太にあの子は操られ、利用されているだけなんだ。でも、それでもあの子は私の息子だ。親権を取って、佐藤翔太の影響から引き離せば、何が正しいことなのか、私が教えてあげられる。
そう信じるしかなかった。もしそうでなければ、もし息子が本気で私を傷つけようとしていたなどと考えてしまったら、もう前へ進み続けられる自信がなかったから。
