第1章 彼の息子が彼女を死なせようとする
「ケーキを作ったの。早く元気になってね」
五年間、植物状態だった鳴海絃星は、目を覚まして初めて自分の息子の姿を見た。
彼女はそっと手を伸ばす。指先が彼の髪に触れかけたところで、ふっと止まった。次の瞬間、震える腕で小さな身体を抱き寄せる。
「光太……」
けれど腕の中の子は、熱いものに触れたみたいにびくっと身を引き、勢いよく離れた。ひどく不機嫌そうに吐き捨てる。
「僕は光太じゃない。八幡一辰だ」
その拒絶に、鳴海絃星の腕は宙で固まった。
臓腑を氷の手で握り潰されたみたいに胸が締めつけられ、息が詰まるほど痛い。
五年前――八幡一辰が生後一か月になったばかりのころ。
息子への贈り物を買いに行こうとしていた彼女は、道の途中で、暴走した車が歩道脇の小さな女の子へ突っ込んでいくのを見た。
母親になったばかりだったからだろうか。考えるより先に身体が動いていた。
駆け出し、突き飛ばし――そして倒れたのは、彼女のほうだった。
結果、植物状態になった。
この五年間、母親としての役目を果たせなかった。八幡一辰がこんな反応を見せるのも、当然だ。
鳴海絃星は必死に口角を持ち上げた。そうでもしなければ、この現実を受け入れられそうになかった。
「一辰……」
八幡誠言が、なぜ自分の望んだ通りに子供へ八幡光太という名をつけてくれなかったのかは分からない。
それでも、また会えた。それだけで、幸運だと思いたかった。
失われた五年は、これから少しずつ埋めていけばいい。
そう思い直し、鳴海絃星は微笑む。
「素敵な名前ね」
「詩羽ママがつけてくれたんだから、いい名前に決まってる」
さっきまでの冷たさが嘘みたいに、八幡一辰は小さな顎をつんと上げ、得意げに胸を張った。
鳴海絃星はその場で凍りついた。しばらくして、ようやく声を絞り出す。
「詩羽ママって……若林詩羽のこと?」
「そうだよ!」
ぞくり、と背骨を這い上がる寒気が、あっという間に全身を凍らせた。
考える間もなく、八幡一辰はケーキの箱を開け、彼女の前に差し出す。
「食べて。僕が自分で作ったんだ」
「……ええ」
断るのが忍びなくて、鳴海絃星は受け取り、ひと口かじった。
その瞬間、鼻を突く香りに気づく。
――ヘーゼルナッツ。
彼女はヘーゼルナッツにアレルギーがあった。触れただけでも体調を崩すほどに。
吐き出す間もなく胸が急に苦しくなり、息が吸えなくなる。
「一辰……はやく……お医者さんを……呼んで……」
喉がきゅっと塞がり、吸い込もうとするたび、鋭い痛みが走った。
けれど、八幡一辰はその場に立ったまま、ぴくりとも動かなかった。
窒息しかけ、苦痛に歪む鳴海絃星の顔を見つめながら、彼は鼻を鳴らす。
「お前さえいなければ、詩羽ママが僕のママになれたのに。どうして目を覚ましたんだよ!?」
その言葉に、鳴海絃星の身体はびくりと硬直した。
息も痛みも、一瞬だけ止まったような錯覚。
だが今の彼女に考える余裕などない。生きたいという本能に突き動かされ、彼女は必死にナースコールへ手を伸ばした。
そのとき――
ぐらり、と視界が回る。
鳴海絃星の身体は、そのまま勢いよく床へ叩きつけられた。
意識が急速に遠のいていく。
それでも闇に沈む直前、幼い声が耳元で囁いた。
「詩羽ママ、言われた通りケーキにヘーゼルナッツ入れたよ。これでパパと結婚して、ずっと僕のママでいてくれる?」
その一瞬、鳴海絃星の胸を襲った痛みは、五年前に車輪に身体を轢かれたときより、ずっと深く、ずっと絶望的だった。
命がけで産み落とした我が子が、自分の死を願っている――
再び目を覚ましたとき、ベッドの傍らにひときわ背の高い影が立っていた。
夫――八幡誠言。
「誠言……」
鳴海絃星がその名を呼び、何かを言いかけた瞬間、氷のような声が降ってくる。
「自分がヘーゼルナッツにアレルギーだって分かってるのに、どうして食べた。五年も俺を振り回して、まだ足りないのか?」
鳴海絃星はきゅっと唇を結び、苦しげに首を振る。
「違うの。一辰が……」
「パパ、ケーキは僕が作ったの。でも、あの人がヘーゼルナッツでアレルギーになるなんて知らなかった……」
小さな身体が男の背後で震える。怯えた子鹿みたいに。
鳴海絃星は息子を見つめ、抑えきれず声を荒らげた。
「一辰、どうして嘘をつくの。あなたと若林詩羽の話、聞いたのよ。あの人に唆されて、私のケーキにヘーゼルナッツを入れたんでしょう? 答えなさい!」
たちまち八幡一辰の目が真っ赤になり、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「違う……僕じゃない……パパ……怖い……」
「もういい、鳴海絃星!」
八幡誠言は八幡一辰を背後にかばい、鳴海絃星を見下ろした。その眼差しには、骨の髄まで冷え切るような嫌悪が満ちている。
「自分の不注意を、どうして子供や詩羽のせいにする?」
「お前が眠っていたこの五年、一辰を実の子みたいに可愛がってきたのは詩羽だ。それなのに、お前はそんな目で彼女を疑う。話にならない」
叱責を浴びるほどに、八幡一辰の泣き声は大きくなる。
「ママ、怖い! いらない! 僕、詩羽ママがいい! パパ、詩羽ママがいい……!」
甲高い泣き声が、鳴海絃星のいちばん柔らかな場所を、毒を塗った針みたいに何度も刺した。
八幡誠言は慌ててしゃがみ込み、八幡一辰をあやす。
「泣くな、一辰。今すぐ詩羽ママを呼ぶ。迎えに来てもらうから」
ほどなくして、若林詩羽がやって来た。
部屋へ入った途端、八幡一辰は救いを見つけたみたいに、彼女の胸へ飛び込んでいく。
「詩羽ママ……連れてって。ここから連れてってよ。ママ、すごく怖い……」
若林詩羽は彼をきつく抱きしめ、その頬を優しく撫でた。
「そんなこと言わないの。あの人はあなたのお母さんでしょう?」
「違う。あの人なんか僕のママじゃない。ママになってほしくない……」
若林詩羽は八幡一辰の小さな口をそっと塞ぎ、柔らかく言い聞かせる。
「一辰、そんなこと言っちゃだめ……」
それから顔を上げ、蒼白な鳴海絃星へ目を向けた。
「絃星、目を覚ましたって聞いて……本当にうれしかった」
鳴海絃星は若林詩羽を睨みつけ、爪が掌に食い込むほど拳を握りしめた。
「若林詩羽……前は気づかなかったけど、あなたって芝居が上手いのね」
若林詩羽は眉をひそめ、反射的に八幡誠言を見た。いかにも傷ついたような顔で、か細く首を振る。
「絃星、何を言ってるの? 私、意味が分からない……」
鳴海絃星が冷たく鼻で笑い、口を開こうとしたその前に、八幡誠言が一歩進み出て若林詩羽の前に立った。
「黙れ。この件は詩羽に関係ない。これ以上一言でも余計なことを言ってみろ。容赦しない」
その瞬間、喉の奥に血のような甘い味が込み上げた。
八幡誠言は、鳴海絃星にとって青春そのものだった。
けれど彼の心にいたのは、ずっと若林詩羽だけ。
あの夜の事故のような出来事がなければ、きっと彼は彼女と結婚などしなかっただろう。
それでも鳴海絃星は、信じていた。
自分が与え続ければ、いつか彼も振り向いてくれるかもしれないと。
だが現実は、容赦なく頬を張った。
他の女の言葉を信じて自分の命を奪おうとする息子。
そして、永遠に自分を愛さない男。
鳴海絃星は、ふっと笑った。
「八幡誠言。あなたの心に私がいないなら……離婚しましょう……」
