第2章 離婚しよう
八幡誠言は眉間に深い皺を刻み、隠しようもなく苛立ちを滲ませた。
言い返そうとした、その瞬間。
若林詩羽が先に鳴海絃星の前へ歩み出て、やわらかな声で言う。
「絃星、私のこと見たくないの、分かってる。今すぐ出ていくから……だから離婚だなんて言って意地張らないで。どうあれ、あなたは一辰のお母さんで、私は……」
そこまで言ったところで、若林詩羽の目元が赤く染まった。
若林詩羽が泣いたのを見た八幡一辰は、勢いよく駆け寄り、彼女の腰にぎゅっとしがみつく。
「詩羽ママ、行かないで。僕、ママなんていらない。詩羽ママだけがいい」
若林詩羽は一辰の頭を撫でた。
「一辰、いい子にして。おばさんだって離れたくない。でも……あの人があなたのママなのよ……」
「違う! あいつなんか僕のママじゃない!」
ぷつん、と何かが切れたみたいに、一辰は若林詩羽を突き放し、一気に鳴海絃星の前へ駆け寄った。鼻先に指を突きつけ、喉を裂くように叫ぶ。
「お前みたいな悪い女、なんで目を覚ましたんだよ! そのまま死ねばよかったんだ! 大嫌いだ!」
一言一言が、胸を抉る刃だった。
鳴海絃星の耳の奥で、ぶうん、と嫌な音が響く。
次の瞬間、一辰はテーブルの上の熱い湯の入ったカップを掴み、そのまま彼女へぶちまけた。
「一辰、だめ――」
若林詩羽が悲鳴を上げ、とっさに鳴海絃星の前へ飛び込む。
それまで微動だにしなかった八幡誠言が、そのときだけ動いた。
長い腕がさっと伸び、若林詩羽を強く抱き寄せる。
行き場を失った熱湯は、そのまま鳴海絃星のむき出しの腕へ降りかかった。
焼けるような激痛に、鳴海絃星は息を呑む。
それなのに、いちばん近しいはずの二人は、まるで何も見えていないかのようだった。
「詩羽ママ!!」
一辰は若林詩羽へ飛びつき、ほんのり赤くなった手首を見て、声を上げて泣き出す。
「ごめんね、詩羽ママ! かけるつもりじゃなかったんだ。痛い? 痛いよね?」
若林詩羽は八幡誠言の腕の中で顔色を失いながらも、無理に笑った。
「私は大丈夫。一辰、泣かないで」
八幡誠言は彼女を見下ろし、瞳には溢れそうなほどの痛ましさが滲んでいる。
やがて彼は若林詩羽を抱き上げ、鳴海絃星へ視線を向けた。さっきまでの情が嘘みたいに、その眼差しは凍てついた。
「騒ぎたいだけ騒いで、満足したか?」
八幡誠言は鳴海絃星を鋭く睨みつけ、振り返りもせず出ていった。
一辰も慌ててそのあとを追う。
だがドアの前で、ふと振り返る。
鳴海絃星の赤く腫れた腕をちらと見て、冷たく言い放った。
「自業自得だ」
そうして小さな背中も、すぐに遠ざかっていった。
世界が、しんと静まり返る。
三人が去っていく背中を見つめながら、鳴海絃星は胸に大きな穴が穿たれたような気がした。息をするだけで痛い。
彼女はベッドサイドの呼び鈴を押す。
「火傷したので……処置をお願いします」
看護師が入ってきて、傷の手当てを始める。
鳴海絃星は唇を湿らせ、静かに尋ねた。
「お電話、少しお借りしてもいいですか」
看護師は頷き、携帯を差し出した。
鳴海絃星は親友の土井優夕へ電話をかける。
「もしもし、どちらさまですか?」
懐かしい声を聞いた瞬間、喉が詰まった。
「優夕……」
電話の向こうが、ぴたりと静まる。
数秒後、土井優夕の信じられないという叫びが弾けた。
「うそでしょ!? 絃星!? 本当にあんたなの? いつ目を覚ましたの!?」
「優夕、聞いて」
鳴海絃星は遮るように言った。
「弁護士を探して。八幡誠言と離婚したいの」
「……はあ!?」
離婚という言葉に、土井優夕は宇宙人でも見たみたいに声を裏返らせる。
「絃星、何があったの?」
「長くなるの。とにかく急いで、離婚協議書を作って送って。財産も、子供も、私は何もいらない」
「分かった」
土井優夕はそれ以上何も聞かなかった。通話を切るとすぐに弁護士へ連絡を入れた。
ほどなくして協議書は病院へ届いた。
鳴海絃星はざっと目を通し、問題がないことを確認すると、それを八幡誠言のもとへ送らせた。
そのころ、VIP個室では――
八幡誠言が若林詩羽のそばに座り、すでに治りかけている手首の手当てにつき添っていた。
そこへ助理がドアをノックする。
「八幡社長、奥様からお届け物です」
八幡誠言は視線すら上げず、冷たく言い捨てた。
「捨てておけ」
またくだらない手で気を引こうとしている――そう思ったのだ。
助理は困ったように眉を下げる。
「八幡社長、今回は少し違います。やはり一度ご覧になったほうが……ここへ置いておきます」
そう言って、書類を脇の棚へ置いた。
八幡誠言はそこで初めて、施しのように一瞥をくれる。
だが、その視線が表紙の五文字――『離婚協議書』――に触れた瞬間。
いつもの無表情が、ぴたりと固まった。
その変化に、若林詩羽もすぐ気づく。
彼の視線の先を追い、彼女は目を見開いた。
「絃星、本当にあなたと離婚するつもりなの?」
「こんなちょっとした誤解で、どうしてそこまで衝動的に……」
そして、いかにも自分を責めるように唇を噛む。
「全部、私のせいね……誠言、私のことはいいから、早く絃星のところへ行ってちゃんと説明して。私のせいであなたたち夫婦の仲にひびが入るなんて、そんなの……」
彼女は八幡誠言を押しやるように促した。
その直後、彼女の口から小さく痛みを堪える息が漏れる。
一辰は素早く反応し、すぐに彼女の手を包み込んだ。
「詩羽ママ、大丈夫?」
若林詩羽は目を赤くしたまま、首を横に振る。
すると一辰は振り返り、八幡誠言へ食ってかかった。
「パパ、あんな悪い女の言うことなんか信じちゃだめだよ! わざとパパを呼び出そうとしてるんだ。見てよ、詩羽ママ、こんなに痛そうなのに!」
小さな顔いっぱいに鳴海絃星への憎しみを浮かべ、鼻を鳴らす。
「離婚したいなら勝手にすればいい。僕だってあの人にママになってほしくない!」
「八幡一辰」
八幡誠言は低く咎めた。
「誰にそんな口を利くよう教わった」
その冷えた顔を見て、一辰は怯えたように若林詩羽の後ろへ身を寄せる。
若林詩羽は反射的に彼を胸元へかばった。
「誠言、一辰はまだ小さいの。絃星に慣れていないし、大切なものを取られそうで不安なんでしょう。そんなに叱らないで」
八幡誠言は一辰を見つめ、何か言いかけて、結局のみ込んだ。
「少し出てくる。あとで運転手に送らせる」
そう言い残し、彼はテーブルの上の離婚協議書を手に取り、足早に部屋を出ていった。
その姿が見えなくなってから、一辰はようやく顔を上げる。
「詩羽ママ、パパ、あの女と離婚しに行ったんだよね。そしたらすぐ、詩羽ママが僕のママになれるよね」
若林詩羽は口元をわずかに緩め、腕の中の小さな身体をさらに抱き寄せた。
「一辰、前におばさんがお願いしたこと……パパには絶対に言っちゃだめよ。もし知られたら、パパは怒るし、私はずっとあなたのママになれないままだから」
一辰はすぐに力いっぱい頷く。
「大丈夫。僕、口は固いよ」
若林詩羽は満足そうに彼の頭を撫でた。
「いい子ね……」
部屋を出た八幡誠言は、離婚協議書を握る指先に、知らぬ間に力がこもっているのに気づかなかった。
握りつぶされそうな紙が、みしりと悲鳴を上げる。
次の瞬間、彼は腕を振り上げ、その皺だらけになった協議書をゴミ箱へ叩き込んだ……。
