第3章 八幡奥さんの位置、お前のほうが彼女よりふさわしい
八幡誠言が病室のドアを押し開けたとき、ちょうど鳴海絃星がベッドから降りようとしていた。
だが、五年もの間寝たきりだった脚はすっかり萎え、力が入らない。
つま先が床に触れた瞬間、膝がふらりと抜けた。視界がぐらつき、身体がそのまま前へ投げ出される。
「っ……!」
鳴海絃星は反射的に目をぎゅっと閉じ、衝撃に備えた。
けれど、痛みは来なかった。
逞しい腕がさっと伸び、彼女の腰を確かに抱きとめる。落ちかけた身体を受け止め、そのままベッドの脇まで戻された。
「無茶して何になる」
聞き慣れた声に、鳴海絃星ははっと目を開く。
八幡誠言の顔が視界に入った瞬間、全身がびくりと強張った。ほとんど本能で彼を突き放す。
その反動で支えを失い、彼女はまたベッドへと倒れ込んだ。
避けるようなその態度に、八幡誠言の顔が一気に曇る。冷たく鼻を鳴らし、
「……何だ。五年前は、そんな顔しなかったくせに」
鳴海絃星は答えない。腕に力を込めて身体を起こし、息を整えながらゆっくり座り直す。
「離婚協議書、見た?」
顔を上げた彼女は、死んだ水面みたいに静かな目をしていた。
「問題ないなら、早く署名して」
あまりにも平然と「離婚」を口にされ、八幡誠言の胸の奥が妙に詰まる。名のない苛立ちがふつふつ湧き上がった。
「鳴海絃星。本気で俺が承諾しないと思ってるのか?」
彼はふいに身をかがめ、ベッドと自分の身体の間へ彼女を閉じ込める。
「ただ不思議でな。あのときは散々必死になって俺のベッドに潜り込み、妊娠を盾に結婚まで迫ったくせに……少し言われただけで離婚だ?」
じっと覗き込み、どこかに演技の綻びがないか探すように視線を走らせる。
「鳴海絃星。離婚したいなら、してやるのは構わない。だが一辰だけは別だ。あの子を連れていけると思うな」
子供の名を出せば縛れる。八幡誠言はそう踏んでいた。
けれど鳴海絃星は、唇の端をかすかに動かしただけだった。
「子供はいらない。協議書に、はっきり書いてある」
八幡誠言の動きがぴたりと止まる。
子供まで、いらない?
本気で離婚するつもりなのか――その認識が、胸の奥に一瞬だけ鈍い痛みを落とした。だがそれもすぐに消える。
彼はさらに一歩踏み込み、高い影で彼女を覆った。
「いい加減にしろ。八幡家は、お前が好き勝手に出入りできる場所じゃない」
鳴海絃星は彼を見上げる。
「離婚して、若林詩羽と一緒になれる。あなたにとっては都合がいいでしょう?」
「よくない」
間髪入れずに返ってきた否定に、鳴海絃星の鼓動が一拍、跳ねた。
信じられないほど小さな期待が、胸の奥でふっと灯る。
だが次の言葉が、それを容赦なく踏み潰した。
「詩羽は純粋すぎる。八幡の奥さんの席は、あいつには向いてない」
ぱきり、と胸のどこかで何かが割れた音がした気がした。
そのとき、八幡誠言のスマホが鳴る。
画面に若林詩羽の名が表示され、彼は通話に出た。
「どうした」
『パパ、前に行った空中花園でご飯食べたい。いつ終わる? 僕と詩羽ママ、駐車場で待ってる』
「今行く」
電話を切ると、八幡誠言は冷えた目で鳴海絃星を見た。
「念のため言っておく。余計なことは考えるな。八幡奥さんとして大人しくしてろ。一辰のことは……」
少し間を置き、事務的に続ける。
「この五年ずっと詩羽が面倒を見てきた。お前に馴染まないのも当然だ。時間を見て俺から話しておく。できるだけ早く受け入れるように」
さらに思い出したように言葉を足した。
「それから来週、八幡グループの周年パーティーがある。お前も出席しろ。この数日でリハビリの担当をつける。さぼるな。当日、八幡グループに恥をかかせるな」
そう言い捨て、彼は振り返りもせず病室を出ていった。
ドアの向こうに背中が消えるのを見届け、鳴海絃星は長い睫毛を伏せる。荒れ狂う感情は、その奥へ押し隠された。
それから数日。
鳴海絃星は高強度のリハビリに身を投じ、少しずつ歩く感覚を取り戻していった。
担当の療法士が経過を八幡誠言へ伝えても、返ってきたのは淡々とした「そうか」だけ。
まるで当然だと言わんばかりに。
彼にとってこの結婚は、鳴海絃星がやっとの思いで手に入れたものだ。彼女が本気で離婚を望むはずがない――そう決めつけている。
全部、気を引くための新しい手だと。
だから彼は知らない。
鳴海絃星がここまで必死に回復を急ぐのは、一日でも早く彼のもとを去るためだということを。
リハビリ五日目。
鳴海絃星はようやく退院を許された。
少ない私物を静かにまとめ、配車アプリを開こうとしたそのとき――病院の前に停まっている見慣れた車が目に入る。
後部座席の窓が半分だけ下がり、その向こうに八幡誠言の硬質な横顔が見えた。
昔なら、迎えに来たというだけで胸が満たされたかもしれない。
けれど今の心は、死んだ湖みたいに静かで、波紋ひとつ立たない。
「乗れ」
八幡誠言は顔も上げず、いつもの苛立ちを滲ませた声で言う。
鳴海絃星は視線を引き戻し、素直に車へ向かった。いまの彼女は無一文だ。変な意地を張るつもりもない。
助手席が空いているのを見て、迷わずそこへ座る。
今は、少しでも彼の近くにいたくなかった。
想定していた位置に彼女が来ないことに気づき、八幡誠言はふいに顔を上げた。胸の奥にむっとした怒りが湧く。
午前の会議まで断って迎えに来たというのに、この女は感謝どころか仏頂面か――。
八幡誠言の顔色が見る見るうちに悪くなる。スマホを握る指にも力がこもった。
昏睡から目覚めて以来、こいつはますます分をわきまえなくなった。
薄い唇をきつく結び、車内の空気を凍らせたまま、彼は何も言わない。
ただ無言で、前後席を隔てる仕切りを勢いよく上げた。
見えなければ、それでいい。
仕切りが上がったのを見て、鳴海絃星はようやく長く息を吐いた。
しばらくして、向こう側からかすかに着信音が聞こえる。断片的な言葉が、途切れ途切れに耳へ届いた。
次の瞬間、仕切りが下がる。
八幡誠言は冷たく、たった一言を投げた。
「降りろ」
