第5章 彼女は狂った
鳴海絃星は力の入らない身体を引きずるようにして、ようやく自分の部屋の前まで辿り着いた。
――ここが、かつて自分が使っていた部屋。
結婚してからというもの、八幡誠言は彼女が主寝室へ足を踏み入れることを一度たりとも許さなかった。だからせめて、と。彼にいちばん近い場所を選んだ。
扉の前で深く息を吸い、胸の奥で渦巻くものを無理やり押し込める。ノブをひねった。
扉が開く。
……その瞬間、絃星はその場で凍りついた。
部屋の中は雑多な荷物で埋め尽くされ、足の踏み場すらない。
「いつ戻ってきたんですか」
振り返ると、背後に長島さんが立っていた。
この家に長く仕える使用人だ。嫁いだばかりの頃は、親しげではないにせよ、それなりの礼はあった。だが今、顔に浮かんでいるのは、隠そうともしない薄い侮り。
けれど、もうすぐ離婚する。今さらどうでもよかった。
「長島さん。どうして私の部屋がこんなことになってるの?」
長島さんは口の端を歪める。
「若林嬢の荷物を置く場所がなかったんですよ。どうせ奥様の部屋は空いてたんですし、とりあえず置かせてもらっただけです」
言い終えるのも待たず、絃星は床に積まれた段ボールを跨いで中へ入った。そして目についたものから片端に、外へ放り出していく。
「奥様、何するんですか。それ、全部若林嬢のものですよ。壊したらどうするんです」
長島さんが慌てて近づき、絃星の手首を掴んだ。
その瞬間、絃星の中で何かがぷつりと切れた。
彼女はさっと振り向き、長島さんの頬へ平手打ちを叩き込む。
「使用人の分際で、私に触るとはいい度胸ね。自分の立場をわきまえなさい」
長島さんは頬を押さえ、目を見開いた。そこに浮かぶのは、痛みよりも露骨な恐怖だった。
いつも黙って耐えるだけだった女が――まるで別人みたいだ、と。
絃星は構わず、部屋中を探る。
やがてクローゼットの奥の奥、いちばん見えない場所に押し込まれた小さな箱を見つけ出した。作りのいい、装飾の施された箱だ。
ほっと息をつきかけた、そのとき。
本来あるはずの鍵がない。
心臓がひやりと跳ねる。
絃星は急いで蓋を開けた。
……中は、空だった。
そのとき、階段を上がってくる足音がした。ほどなくして若林詩羽が現れ、散らかった惨状を見て眉をひそめる。
「どうしたの?」
長島さんが頬を押さえ、甲高く言い立てた。
「若林嬢、この女、頭がおかしくなったみたいです! 近づいちゃだめですよ!」
若林詩羽は首を横に振り、ゆっくりと絃星へ歩み寄る。
「絃星……あなたが急に目を覚ますなんて思わなくて、使用人に片づけを命じるのを忘れてたの。今夜は別の部屋で我慢してくれない?」
絃星はその言葉を聞かなかった。箱を握りしめたまま、声を落として問い詰める。
「……ここに入れてたネックレスは?」
母が死ぬ前に、たったひとつ残してくれた形見。
若林詩羽は一瞬だけ動きを止めた。
「ネックレス? 私は見てないわ。長島さん、見た?」
長島さんは大げさに首を振る。
「奥様、もう五年も前のことでしょう。誰が古い鎖一本なんて覚えてます? とっくに処分されたのかもしれませんよ」
「どんなネックレスだったの? だったら……新しいの、買ってあげる」
絃星は鼻で笑いそうになった。
箱の縁には、こじ開けられたような傷が残っている。
「若林詩羽。最後に一度だけ聞くわ。ネックレスはどこ?」
「だから、私は本当に――きゃっ!」
言い終える前に、絃星の手が閃いた。
ぱん、と乾いた音が、静まり返った廊下に鋭く響く。
不意を突かれた若林詩羽は顔を横へ弾かれ、白い頬にみるみる赤い指の跡が浮かび上がった。
「若林嬢!」
長島さんが悲鳴を上げ、慌てて若林詩羽を支えながら、絃星を睨みつける。
「奥様! どうして手なんか上げるんです!」
騒ぎを聞きつけたのだろう。一階にいた父子が、ほどなくして二階へ駆け上がってきた。
八幡一辰は真っ先に若林詩羽の腫れた頬を見つけると、小さな砲弾みたいに絃星へ突進してきて、力いっぱい押しのけた。
「悪い女! また詩羽ママをいじめた!」
「出ていけ! この家から出ていけよ! 僕、お前なんかいらない!」
そのとき、氷を削ったような声が落ちた。
「――何の騒ぎだ」
八幡誠言だった。
彼は若林詩羽の赤く腫れた頬を見るなり、瞳をわずかに細める。そして絃星へ視線を移した。
「鳴海絃星……また何をしている」
長島さんが間髪入れずに割って入る。
「旦那様、奥様がネックレスがなくなったと言い出して、若林嬢が盗ったって疑って……それで叩いたんです」
絃星が口を開こうとするより早く、誠言の冷え切った声が突き刺さった。
「ネックレス一本だろう。欲しいなら明日、秘書に十本でも百本でも買わせてやる。そんな些細なことで手を上げるとはな。鳴海絃星、お前の躾はどうなっている」
そして、拒否を許さぬ口調で言い放つ。
「詩羽に謝れ」
絃星は空っぽの箱を握りしめ、冷えた目で誠言を見上げた。
「……私は悪くない」
「自分が何をしたか分からないのか。理由が何であれ、暴力は間違いだ。一辰も見ている。母親として、それが見本になるとでも思ってるのか」
絃星は、ふっと短く息を吐く。冷えた笑いが喉を鳴らした。
「私の何が間違ってるの?」
そして、一語一語、噛みしめるように続ける。
「八幡誠言、忘れないで。私たちはまだ離婚してない。なら私はまだこの家の女主人よ」
「若林詩羽は、子供の世話を手伝いに来てるだけの保姆でしょう? その人が私の部屋を勝手に使って、私が謝れ? ……笑わせないで。あの人に、そんな資格があると思う?」
誠言の顔が、見る見るうちに冷え固まっていく。
「冥頑不霊だな」
そして背後へ命じた。
「来い。奥様を地下室へ連れていけ。俺の許可があるまで出すな」
再び絃星へ向けられた眼差しは、氷の槍のように冷たかった。
「自分の過ちを認めるまで、どこにも行くな」
地下室――日も差さず、狭く湿った場所。使用人ですら住みたがらない。
そこへ閉じ込めるなど、監禁と変わらない。
彼が若林詩羽のためなら、ここまでやる。
その事実が、胸の奥をじわじわと凍らせた。
絃星の目に涙が滲む。それでも必死に瞬きを堪え、誠言をまっすぐ見つめて、最後の問いを零した。
「……私が謝れば、あなたは――」
