第6章 彼女の英雄が来た
鳴海絃星の言い残した問いは、嗚咽と絶望に震えながら、澱んだ空気の中へふわりと溶けていった。
八幡誠言は眉間をわずかに寄せる。
どうせいつもみたいに、泣いて縋って、折れてくる――そう思っていた。
けれど絃星は、かすれた声で言った。
「……私が謝れば、見逃してくれるの? 離婚協議書に署名してくれる?」
離婚。
その二文字が、不意打ちみたいに八幡誠言の鼓膜を叩いた。
理由の分からない苛立ちが心臓を乱暴に掴み、息が一瞬だけ詰まる。自分の支配から外れた感情の揺れが、不快でたまらなかった。
八幡誠言はほとんど唸るように言い放つ。
「連れていけ!」
長島さんは陡然と爆ぜた怒気にびくりと肩を震わせ、もう迷いもしない。鳴海絃星の細い腕を強く掴み、引きずるように階段へ向かった。
絃星はよろめき、腰の痛みに喉が詰まって小さく呻く。けれど血の滲んだ下唇をきつく噛み、苦鳴も弱さも喉の奥へ押し込めた。
階段口まで引っ張られ、地下室へ続く陰った曲がり角へ折れようとした、その瞬間――。
どこにそんな力が残っていたのか。
鳴海絃星は、ぱっと長島さんの手を振りほどいた。
次の瞬間、身体の芯を燃やすように力をかき集め、ふらつきながらも決然と別荘の外へ駆け出す。
「絃星!」
若林詩羽が悲鳴のように呼び、追いかけようと身を乗り出す。
けれど足は動かない。ただ引き留めるように手を伸ばしただけだった。
そのとき、八幡一辰が若林詩羽の脚にしがみつく。
「行かせればいいんだよ! あいつがいなくなれば、もう誰も詩羽ママをいじめない。家だって静かになる! ねえ、パパ、そうだろ?」
若林詩羽は視線を落とし、胸を痛めるように一辰の頭を撫でた。目元はいっそう赤くなる。
「一辰、そんな言い方しちゃだめ……あの人は、あなたのお母さんよ。全部、私のせい……私がいなければ、こんなことにはならなかった……あの人だって、きっと傷ついて飛び出したの」
言葉は次第に涙混じりになっていく。
「誠言、まだ身体も治ってないのに、お金も持たずに出ていったのよ。もし何かあったら、私……一生、胸が痛いままになる……お願い、追いかけて……」
八幡誠言はその場に立ったまま、氷像みたいに動かなかった。
ただ、さっき胸に灯った苛立ちの火だけが、さらに勢いを増して燃え上がる。
家を飛び出して、俺の注意を引くつもりか――。
くだらない。
彼は、彼女を知り尽くしていると思っていた。
鳴海絃星は自分を見失うほど自分を愛し、一辰のことも命より大事にしている。そんな女が、本当にこの家を捨てられるはずがない。
どうせ、拗ねて見せて追わせようとしているだけだ。
ここで追えば、むしろ思う壺。今後ますます付け上がる。
八幡誠言の声は、氷を削ったみたいに冷たかった。
「放っておけ。出ていきたいなら行かせればいい。八幡家を離れて、あいつがどれだけもつか見ものだ」
そして門番へ言い捨てる。
「守衛にも伝えろ。どれだけ泣きついてこようと、絶対に中へ入れるな」
八幡誠言の中では、絃星は駆け引きをしているだけだった。そう遠くないうちに、戻ってきて許しを乞う――疑いもしない。
そう考えると、彼はふいに踵を返した。
もう玄関のほうを見ようともしない。まるで鳴海絃星の出奔など、取るに足りない瑣事であるかのように。
若林詩羽は何か言いたげに唇を動かしたが、結局、飲み込む。
八幡一辰が小さな手で彼女の指を握った。
「詩羽ママ。パパ、あの女と離婚するよね?」
若林詩羽は伏し目になり、苦い笑みを浮かべる。
「どうかしら……もしかしたら、あなたのパパの心の中には、まだお母さんがいるのかもしれないわ」
でなければ、さっき鳴海絃星が離婚を口にしたとき、あんなふうに答えを濁したりしない。
八幡誠言は――鳴海絃星が好きなのかもしれない。
その認識が、若林詩羽の頭の中でじわじわと膨らんでいく。
やがて、どす黒い感情が胸の底から湧き上がった。
若林詩羽はしゃがみ込み、一辰をきつく抱きしめる。
「一辰……いつか私、あなたの前からいなくならなきゃいけない日が来るかもしれない。おばさん、あなたと離れるの、つらい……」
一辰も力いっぱい抱きついた。
「詩羽ママ、行かないで! もしパパが本当にあの女と仲直りするなら、僕、もうパパのこともパパって呼ばない! 僕よりあいつのほうが大事だなんて、絶対おかしい!」
そう言って、小さな手で若林詩羽の頬をそっと撫でる。
「詩羽ママ、安心して。僕、あの女をママだなんて絶対に認めないから。永遠に!」
……
夜は濃く、冷え込みは肌を刺すほどだった。
鳴海絃星は魂だけを剥ぎ取られた空っぽの抜け殻みたいに、あてもなく街を歩いていた。
足裏の水ぶくれはとっくに潰れ、焼けるような痛みが絶え間なく続いている。
それでも、足を止めない。
あの場所から、もっと遠くへ。もっと、もっと遠くへ――。
どれだけ歩いたのか。
視界が暗く滲み始めたところで、ようやく道端の冷たい街灯にすがりついた。水から上げられた魚みたいに、激しく息を喘ぐ。
冷えた空気が喉を切り裂く。
今夜、どこで過ごせばいいのか――見当もつかない、そのとき。
遠くから二筋の強いヘッドライトが伸びてきて、彼女を包む闇をまっすぐ切り裂いた。
鳴海絃星は目を細める。
高級車が静かに彼女のそばへ停まった。
窓がゆっくりと下がる。
そこに座る人物の顔を見た瞬間、鳴海絃星の瞳は大きく見開かれた。
一晩中押し殺してきた苦しみも、屈辱も、その瞬間すべてが熱い涙に変わり、堰を切ったように溢れ出した。
