第2章 高嶺の花
車内では、篠崎司が陰鬱な表情で煙草をくゆらせている。その佇まいは、生まれながらにして人を圧するような威圧感を放っていた。
須田樹が階上から降りてくると、躊躇いがちにブラックカードを篠崎司に差し出し、唇を引き結んで言った。「篠崎社長、これは桜井さんから預かってきたものです」
桜井昭子は、バーでの自分の給料以外、篠崎司の金には一銭も手を付けず、アパートの鍵さえも須田樹に渡していた。
篠崎司の双眸がわずかに翳り、その底に冷たい光が走った。「彼女は一銭も受け取らなかったのか?」
「はい」須田樹は首を振った。本当は桜井昭子のために何か良い言葉を添えようと思ったが、篠崎司が素っ気なく車の窓を閉めるのを見て、結局口を噤むことにした。
後日、桜井昭子はスーツケースを引きずってバーへ辞職を申し出にやって来た。
すっと明るい声が響く。
「その様子だと、別れたの?」
声をかけたのは桜井昭子の親友、江口美月だ。五年前、桜井昭子は偶然にも、万策尽きて自ら命を絶とうとしていた江口美月を救った。二つの孤独な魂は寄り添い、互いを慰め合い、そしてかけがえのない親友となったのだ。
当時、彼女が篠崎司のもとへ去る時、江口美月は言った。「何があっても、私はいつでもあなたの味方だから」
桜井昭子は江口美月に連れられ、彼女のアパートへ向かった。
「話しなさいよ、何があったの? やっぱり別れたんでしょ?」江口美月は温かいミルクの入ったカップを手渡しながら、心配そうに眉を寄せた。
桜井昭子は無理に笑顔を作ったが、痩せこけた頬には疲労の色が隠せない。カップを握る手は、知らず知らずのうちに少しずつ力が込められていく。
長い沈黙の後、ようやくくぐもった返事が聞こえた。
「うん」
病の苦しみは桜井昭子の体を一層華奢に見せ、骨格が浮き出て、まるで今にも吹き散らされそうな花のように、見る者の心を痛ませた。
江口美月は鼻の奥がツンとなり、前に進み出て彼女を強く抱きしめた。「大丈夫よ。たかが男一人じゃない。世の中にはごまんと人がいるんだから、あいつより良い人なんてすぐに見つかるわ」
その言葉に、桜井昭子の声も思わず詰まり、目を赤くしながらも慰めるように言った。「私は大丈夫、本当に」
そうは言うものの、桜井昭子が篠崎司に抱く想いを、彼女は誰よりもよく知っていた。
かつて、桜井昭子は自分を地獄から引き上げてくれた。だが、遠山圭吾という男のために篠崎司の愛人となり、別の深淵へと落ちていった。そして今、無惨にも捨てられたのだ。
もしこの全てが起こらなかったなら、どれほど良かっただろう。
桜井昭子は鼻をすすると、わざと怒ったふりをして彼女の肩を叩いた。「もういいってば。これからは私たち姉妹、一緒に暮らすことになるんだから、喜ばないと。これからここに居座るから、迷惑がらないでよね」
桜井昭子がこの状況でまだ冗談を言う気力があるのを聞いて、江口美月は少しだけ安堵した。
どんな傷も、時間がきっと全てを癒してくれる。ましてや、五年前と同じように、自分が桜井昭子のそばにいるのだから、と彼女は信じていた。
「私があなたを迷惑がるわけないでしょ? それにしてもあのクズ男、あなたに酷いことしたわね。見てよ、こんなに痩せちゃって。待ってて、今からラーメン作ってあげるから」
「うん」桜井昭子は素直に頷き、甘い笑みを浮かべた。
この五年が何をもたらしたかと言えば、最高の贈り物は江口美月という友人だろう。
二人とも家族はおらず、お互いが唯一の家族だった。
ただ、残念なことに……。
彼女に残された命はあと三ヶ月。三ヶ月後、江口美月はまた一人になってしまうのだろうか?
その時、彼女はどうすればいいのだろう? どうしても心配でならなかった。
「はい、お待たせ。ラーメンできたわよ」
湯気の立つラーメンが目の前に置かれ、その上には黄色く輝く目玉焼きがいくつも乗っていた。
「たくさん食べなさい。こんなに痩せちゃって」
「うん」桜井昭子は困ったような表情を浮かべたが、胸の奥はひどく温かかった。
「この後、会社に書類を届けに行くんだけど、あなたも一緒に行かない? 湖のほとりの景色がすごく綺麗なの。気晴らしになるわよ」江口美月は頬杖をついて彼女を見つめ、その瞳は優しさに満ちていた。
桜井昭子は頷き、柔らかな笑みが口元に広がった。
眩しい陽光がガラス窓を通して部屋に差し込み、二人の上に降り注いで、桜井昭子の心をさらに温めた。
人は死に直面すると、自分が持つ全てをより一層大切に思うようになる。この三ヶ月、江口美月のそばで、しっかりと彼女に寄り添っていよう。
江口美月は桜井昭子にロビーで待つように言い、自分は先に上の階へ向かった。
桜井昭子はスーツ姿の数人の男性を見ながら、真っ先に篠崎司の姿を思い浮かべていた。
認めざるを得ないが、篠崎司は彼女が今まで見た中で最もスーツが似合う男だった。彼はまるで、生まれながらにして頂点に立つべき人間であるかのようだった。
数人の女性が笑いさざめきながら、桜井昭子の向かいに座った。
「聞いた? うちの会長の娘さん、海外から帰国されたんですって」
「そりゃもちろん。彼女、どんな人生の脚本を手に入れたのかしらね。自分自身が正真正銘のお嬢様なだけでもすごいのに、あの篠崎グループの彼にとっての高嶺の花なんですって」
「でも、その白川のお嬢様は芸術を追求するために、まだ早く身を固めたくなくて、五年前の篠崎社長のプロポーズを断ったのよ。二人とも意地っ張りだから、ずっと先に頭を下げようとしなかったの」
「誰がそんなこと言ったの? 篠崎社長、白川のお嬢様が帰ってくるって聞くやいなや、真っ先に空港まで迎えに行ったじゃない。五年よ、本当に一途よね」
心の底から這い上がってきた冷気が全身に広がり、桜井昭子の体は、指先までが微かに震え出した。
やはり、篠崎司に関する話を聞くと、今でも呼吸が苦しくなる。
だが理解できなかった。篠崎司がその白川さんを深く愛しているのなら、なぜ五年前、無理やり彼女にあの愛人契約を結ばせたのだろう?
触れられるたびに、彼女は感じていた。篠崎司が、何度も抗えずに、醒めた意識のまま溺れていくのを。
しかしすぐに、彼女はその真相を知ることになる。
「昭子、行きましょう」
江口美月が背後に現れ、彼女の肩を叩いたが、ふと桜井昭子の顔色が恐ろしいほど悪いことに気づいた。
「昭子、どうしたの?」江口美月は胸を締め付けられ、彼女の様子を窺うように身を屈めた。
「何でもない」桜井昭子は首を振り、顔には微笑みを浮かべたが、指の関節は白くなるほど強く握りしめられていた。
大勢の人に囲まれてエレベーターから降りてきた、一人の長身の影が全ての視線を奪った。角の取れたシャープな顔立ちに、淡白で冷え切った表情は、触れることのできない隔絶感を感じさせる。
篠崎司の他に、おそらく東都中を探しても二人とはいないだろう。
「司」
白い影が篠崎司の背後から飛び出し、篠崎司はごく自然に手を差し伸べた。二人の指が絡み合う。だが、現れたその顔こそが、桜井昭子の命を奪うものだった。
噂の高嶺の花は、なんと彼女と五、六分は似た顔立ちをしていたのだ。
桜井昭子は息を呑み、心臓が激しく鼓動する。これまで説明のつかなかった全てのことが、この瞬間に説明できてしまった。
「昭子、行くわよ」江口美月は顔色を暗くし、桜井昭子の腕を掴んで外へと向かった。
ある視線が自分に突き刺さるのを感じたが、振り返ってみても、そこには何もなかった。
桜井昭子は掌を強く握りしめた。自分は一体何を考えているのだろう。篠崎司はあんなにもきっぱりと自分を捨てたのだ。今、本命が隣にいるというのに、どうして自分のことなど見るはずがあるだろうか?
