第2章
「鈴崎家の執事より、若様の名代として宝生知優様にご縁談を申し上げます。こちら、贈答品の目録でございます。宝生様、ご確認くださいませ」
執事の言葉と同時に、手元の目録がすっと開かれた。
……十数ページ。
並ぶのは高級車に豪邸、そして数え切れないほどの珍品ばかり。
その場にいた全員が、目を疑うように息を呑んだ。
「これが……鈴崎家の結納……? 全部でいくらだよ。十数億はあるだろ……!」
誰かが口元を押さえ、半ば悲鳴のように声を漏らす。
「うそでしょ。豪勢すぎる……さすが鈴崎家……」
林原裕樹は羞恥と怒りで顔を歪め、宝生知優を睨みつけた。
「鈴崎家のあいつが病人なのは誰だって知ってる。嫁いだら生きたまま未亡人だぞ! 宝生知優、選び間違えるなよ。林原家の若奥様になれるのに、わざわざ未亡人になる気か」
宝生ミクルは袖の下で拳を握りしめ、目の奥の嫉妬が火花になりそうだった。渡島仁美も同じだ。
――この金が自分たちの手に入れば、と欲が顔に張りついている。
渡島仁美は恨めしそうに宝生知優を睨んだ。
母娘で何年も算段し、林原裕樹を取り逃がし、挙げ句に大勢の前で無理やり「迫って」ようやくここまで来たというのに。
宝生知優を谷底へ突き落とすはずが、鈴崎家からまさかの縁談。
そして決定的なのは、林原家と鈴崎家の差だ。
林原家など、鈴崎家の靴すら磨けない。
宝生知優は表情を変えずに言い放つ。
「未亡人になるにしても、お金持ちの未亡人よ。あなたみたいな腐った男と結婚して、毎日浮気を見せられるよりずっとマシ」
その一言で、林原裕樹の顔色は猪肝のように暗くなった。
宝生知優は執事のもとへ歩み寄り、目録を受け取って丁寧に頭を下げる。
「わざわざありがとうございます。お手数をおかけしました」
執事は朗らかに手を振った。
「とんでもございません。奥様がご自宅でお待ちでございます」
宝生知優は小さく頷き、震驚、嫉妬、怒り――さまざまな視線を背に、背筋を伸ばして会場を後にした。
鈴崎家は市中心の一等地にある。
このあたりの地価は「一坪が金の塊」とまで言われるほどだ。
老宅は、豪奢なレトロ調の大庭園付きの邸宅。
足を踏み入れた瞬間から、贅沢が息をしている。
執事に案内されて中へ入ると、鈴崎母がソファから立ち上がり、笑顔で迎えた。目に浮かぶのは隠しきれない満足。
「知優」
宝生知優は礼儀正しく答える。
「おばさん」
鈴崎母の笑みがいっそう深まった。
「いい子ね。鈴崎家に来てくれたら、絶対に辛い思いはさせないわ。実の娘みたいに大事にする。何かあったら、遠慮しないで言いなさい」
宝生知優は乖巧に頷いた。
鈴崎母はその手を取って、ますます気に入った様子で続ける。
「じゃあ、こうしましょう。式は一か月後。知優、先にここへ引っ越して――潤と少しずつ仲を深めてみない?」
宝生知優の口元の笑みが、わずかに固まった。
一か月後……。
鈴崎潤本人は、自分が母親に「子どものため」に話をまとめられたことを知っているのだろうか。
だが、選んだ以上は後戻りしない。
宝生知優はもう一度頷き、鈴崎母の提案を受け入れた。
同居が決まる。
「身分証をちょうだい。潤は身体が不自由だから、私が手続きを進めておくわ」
本人不在で婚姻手続きが進むのか――と驚きつつも、鈴崎家ならあり得ると納得してしまう。
宝生知優は身分証を渡し、いくつか言葉を交わしてから屋敷を出た。
外へ出ると、午前中は晴れていた空が、いつの間にか黒い雲で覆われていた。
湿った重い空気。今にも雨が落ちてきそうだ。
顔を上げた瞬間、胸の奥の傷がまた疼いた。
感情のない機械ではない。
裏切りの痛みは、毒を含んだ針で心臓をなぞられるようで。
何より気持ち悪いのは、あのベッド写真の数々だ。
宝生知優は息を吐き、スマホを取り出して死党の東山嵐へ電話をかけた。
「今、何してる? 出てきて、一杯付き合って」
東山嵐の笑い混じりの声が返る。
「お嬢様が自分から誘うなんて珍しいな。空から刃が降っても行くさ」
宝生知優は小さく笑った。
「いつもの店で待ってる」
通話を切る。
東山嵐と野原リリは、幼い頃からの友人だ。東山嵐は男だが、ずっと仲がいい。
ただ野原リリは今、海外にいて戻っていない。
夜9時。
バーは熱気の最高潮。若い男女の体温が酒とDJに煽られ、はじける。
宝生知優はボックス席で、グラスを重ねた。
東山嵐が呆れたように舌打ちする。
「恋に溺れた顔してるな。俺もリリも、林原裕樹はろくでもないって言っただろ。お前は愛に突っ込んで見えなくなってた」
「ひと言で言えば、壁に頭ぶつけてようやく引き返すタイプだ」
宝生知優は白目を剥く。
「説教、減らせない?」
東山嵐は肩をすくめて酒を飲み、ふと思い出したように聞いた。
「それで……本当に鈴崎家の病人と結婚する気か?」
宝生知優はグラスを握る指に力を込め、しばらく黙ってから言う。
「正直、お金持ちの未亡人でも悪くない。今は恋愛したくないし、鈴崎潤の遺伝子は悪くない。賢くて顔もいい子どもができて、一生使い切れない金がある。損じゃないでしょ」
東山嵐の目が沈む。
「衝動で決めて後悔しないかが心配なんだ。結婚は冗談じゃ済まない」
宝生知優は顔を上げ、軽くため息をついた。
「でも、もう逃げ道がないの。ここまで騒ぎになったら収拾つかない。林原家は私を許さない。弱みが多すぎる」
未成年の弟。療養院にいる祖母。
そして、当時祖母を壊した一家惨殺の仇――いまだにわからない。
「どれか一つでも林原家に握られたら終わり。鈴崎家に嫁ぐしかない。そうすれば脅されずに、自分のやるべきことに集中できる。……他に選択肢がないの」
最後の言葉は軽いのに、胸に落ちる重さだけは本物だった。
宝生知優はまた一杯、喉へ流し込む。
彼女の世界にあるのは選択問題だけ。しかもいつだって、単一選択。
その夜、彼女はだいぶ飲んだ。
店を出る頃には足元がふらつき、東山嵐が仕方なく肩を貸す。
――と、店の前に一台の最高級ロールスロイスが滑り込むように止まった。
運転席から降りた男が言う。
「若様が、宝生様をお乗せするようにと」
