第4章

鈴崎潤は瞳の色をわずかに揺らし、ゆっくりとしゃがみ込んで彼女と目線を合わせた。だが表情はほとんど動かない。

「……今、何と言った」

鈴崎潤の「信じていない」とでも言いたげな顔を見て、宝生知優は真っ直ぐに言い直す。

「私は、心からあなたに嫁ぎたい。あなたの子どもを産みたいって言ったの」

口にしてしまえば、厚かましい台詞に聞こえるのは自分でもわかっている。けれど、彼女は臆せず堂々と続けた。

「安心して。鈴崎家の財産に興味はないから」

「心から、ね」

鈴崎潤が小さく笑う。だが、その笑みはどこか毒を含んでいた。

「心から、死にかけの男と一緒になるって? 俺が死んだ後、殉死でもする気か」

――やっぱり、説明しても無駄だ。

別れたばかりで、ほとんど面識のない男に向かって「子どもを産みたい」など、筋が通らない。信じてもらえるはずがない。

宝生知優は困ったように彼を見上げ、少しだけ眉を下げた。

「本当のことしか言ってないよ。信じるかどうかはあなた次第。でも信じられないなら、契約で縛ればいいじゃない」

その言い方は不思議なほど潔かった。

鈴崎潤は欲しい答えが得られないと判断したのか、立ち上がる。冷たい目で見下ろし、言い放った。

「外で、俺の噂話をされるのは望まない。特に、君の口から広めるな。わかるな」

宝生知優にはわかる。彼はこの結婚が気に入らない。というより、彼女と関わりを持つこと自体を嫌がっている。

「わかった。私たちの関係は、第三者には漏らさない」

実際、彼女だって鈴崎潤に私生活へ踏み込まれたくはない。

互いの利害が一致しただけの、ただの協力関係。しかも片方は半ば強要されている――そんな歪な形だ。

彼の拒絶は痛いほど伝わる。余計な言葉で不機嫌にしたくなかった。

それでも、どうしても伝えなければならないことがある。

「それで……」

宝生知優は顔を上げた。

「おばさんが、同居して感情を育てろって」

彼女がここへ来る前から、鈴崎潤には鈴崎お母さんから連絡が入っていたのだろう。

「今夜は主寝室で寝ろ」

「じゃあ、潤君は?」

反射的にそう聞くと、鈴崎潤は眉をひそめ、氷みたいな声だけを落として背を向けた。

「書斎」

広い部屋に取り残される。ソファに座ったまま、宝生知優は息を吐いた。

静けさが、怖い。

夜。宝生知優は主寝室へ向かう。

広く、簡素で、それでいて品がある。整った空間から、持ち主の趣味の良さが透けて見えた。

どれもこれも自分には馴染みがなく、現実味が薄い。

ただ「居候」の感覚だけは、妙に生々しい。

鈴崎潤が嫌悪を隠さない理由もわかる。自分なら、たぶん耐えられずに壊れている。

同じ部屋にいるのを嫌がって書斎に逃げる――それだけでも、最大限の譲歩なのだろう。

自分で選んだ道だ。這いつくばってでも進むしかない。

できるだけ、鈴崎潤とは顔を合わせない。

そう決めて、彼女はベッドへ倒れ込んだ。

けれど眠りは浅く、何度も目が覚めた。胸の奥に、嫌な予感が居座ったまま消えない。

そして翌朝。

目を開けた瞬間、宝生知優は見覚えのある影を見て、眠気が一気に吹き飛んだ。

鈴崎お母さんが彼女の正面の高級ソファで優雅に紅茶を飲み、隣に鈴崎潤が座っている。

鈴崎お母さんが何か言うたびに、鈴崎潤の顔色がどんどん沈んでいく。

――たぶん、結婚の話だ。

逃げ出したい空気だった。立ち上がろうとした、そのとき。

「知優、こっちへいらっしゃい」

鈴崎お母さんは慈しむような笑みを向ける。まるで実の娘を見るように。

一方の鈴崎潤は、彼女を空気みたいに扱った。

「おばさん」

宝生知優は近づき、乖巧な笑みを作る。

「潤君、見てちょうだい。私が見つけたお嫁さん、あなたと本当にお似合いでしょう。なんて瑞々しい美人さんなの」

似合うかどうかはさておき、彼女が美しいのは鈴崎潤にもわかるのだろう。視界がぼやけていても、女の鮮やかさだけは伝わっているはずだ。

「……うん」

喉の奥から絞り出したような返事だった。

部屋の温度が、すっと下がる。

「母さん、仕事がある。二人で話してくれ」

鈴崎潤が立ち去ると、宝生知優はようやく息を吐いた。

鈴崎お母さんが不意に尋ねる。

「知優、昨日……潤君と同じ部屋で寝てないの?」

宝生知優は首を横に振る。

「まあ。別々じゃ感情は育たないでしょう? あなたたち、もう少し頑張らなきゃ。私は早く孫を抱きたいのよ」

急くような口調だった。次いで、思い当たったように眉を寄せる。

「もしかして潤君が、一緒に住むのを嫌がってるの?」

「違います!」

宝生知優は慌てて否定した。鈴崎潤の邪魔をしたくない。

「潤君は、まだ慣れてないだけです。今夜は同じ部屋で寝ます」

「潤君」と呼んだだけで、鈴崎お母さんの表情がふっと和らぐ。

宝生知優は柔らかく、誠実に言葉を重ねた。

「私、潤君のことが好きです。早く子どもも欲しい。おばさん、心配しないでください」

午後いっぱい相手をし、ようやく鈴崎お母さんの機嫌が落ち着く。

帰り際、鈴崎お母さんは執事にいくつか指示を出していた。

宝生知優は苦笑し、書斎の方へ目を向ける。扉は半開きで、灯りが細く漏れている。

覚悟を決め、彼女は書斎の扉を軽く叩いた。

扉が開いた瞬間、そこに現れたのは――無表情の顔。

「潤君」

宝生知優は艶やかに笑う。

「おばさんが、同室で寝ろって。潤君はベッドで、私は床でいい。……だめ?」

胸の奥で息を吸う。

「黙ってるなら、了承したってことでいい?」

機会は、奪い取るものだ。

夜。鈴崎潤が主寝室へ戻り、宝生知優は自分の寝具を床に敷いた。

深夜、冷たい床の冷気がじわじわ沁みて眠れない。

宝生知優は小さく丸まり、膝を抱えて温もりを集めようとする。ふいに、みぞおちの奥から冷たい寂しさが込み上げた。

翌朝、彼女は早起きして朝食を作った。

自分の分だけでなく、鈴崎潤の分も。

リビングへ来た鈴崎潤の目に、湯気の立つ目玉焼きを持った彼女の笑顔がぼんやり映る。

「来たんだ。一緒に朝ごはん食べよ? 潤君のために作ったの」

次の瞬間、皿が叩き落とされた。

ぱしゃん、と破片が散る音が、わずかな温もりを粉々にした。

「宝生知優。君は何がしたい」

宝生知優は俯き、黙って破片を拾い集める。

「食べたくないなら別にいい。でも、食べ物を無駄にするのはよくないよ」

鈴崎潤の胸の奥を、名もない罪悪感がかすめたのだろう。声が少しだけ和らぐ。

「……なぜ、そこまでする」

「だって」

宝生知優は片付けながら顔を上げ、きらりと光る瞳で言った。

「潤君に恋してるから」

「どこが好きだ」

「肩は広いし腰は細いし脚は長いし、顔もいいしお金もある。女の夢でしょ」

「浅いな」

「イケメンが好きなのは人情だよ」

「……」

散らかった床を片付け終えると、宝生知優はソファに沈み込んだ。

スマホを手に取り、ニュースを流し読みする。

けれどトップにも、トレンドにも、あの日の婚約披露宴の騒動が出てこない。

――揉み消された。

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