第7章

「それが説明か?」

鈴崎潤が彼女を睨みつけ、怒気を孕んだ声で詰めた。

幸い、鈴崎潤は目が悪い。今の自分がどれほどみっともない格好をしているかまでは、見えていないはずだ。

宝生知優は素早く身を引いた。頭の中はぐちゃぐちゃで、思考もまとまらない。

よろめきながら立ち上がると、また気分の悪さがぶり返す。彼女は体をずらし、サイドテーブルに手をついて支えた。二度と同じ失態は繰り返したくない。

ただ寄りかかれる場所を探しただけなのに、息が上がる。白い肌に熱の赤みが差していた。

「さっき……脚、力が抜けちゃって」

宝生知優は、口元を拭う男を気まずそうに見上げる。声はふわふわと頼りなく、言い訳みたいに弱い。

――恋愛ドラマのあの手のベタな事故って、本当に起きるんだ。

「随分と都合のいい場所を選ぶな」

鈴崎潤が容赦なく言う。

「俺がそんな話を信じると思うのか。宝生知優、近づきたいなら、そんな手は必要ないだろう」

「私、10年分の金運を賭けて誓う。これはただの偶然……っ」

言葉にするだけで体がさらに頼りなくなる。声帯まで震えて、語尾がかすれた。

「それに……仮に私にそういう気があったとしても、このタイミングで出すわけないでしょ」

鈴崎潤は半信半疑のまま、けれど彼女の声に混じる痛みを聞き取ったのか、わずかに表情が緩む。理由のわからない、妙な哀れみが胸をかすめた。

「次はない」

「わかった」

鈴崎潤が立ち去ろうとした、その背に女の声が追いすがる。

「潤君」

「……今度は何だ」

不機嫌そうな声。

「トイレ……連れてってくれない?」

彼は動かない。

宝生知優は必死に目で訴えた。もう力が残っていない。頼るしかない。

「お願い。……ほんとに、もう限界なの」

わざと困らせたいわけじゃない。ただ、我慢の限界が近い。

「無理なら、お手伝いさん呼んでくれてもいいから……」

それでも鈴崎潤が反応しないので、宝生知優は唇を噛んだ。目に涙が溜まり、声がにじむ。

「お願い……ほんとに……」

結局、鈴崎潤は近づいてきた。彼女の腕を乱暴に掴み、ぐっと引き寄せる。

距離が一気に詰まり、彼女はほとんど彼の胸に貼りつく形で並んで歩かされる。

長い指先から、なめらかな感触が伝わる。握られた瞬間、彼女の体がびくりと強張ったのがわかって、鈴崎潤の喉も思わず詰まった。

「……ありがとう」

宝生知優は彼の胸に頬が触れるほど近いまま、呼吸を乱して礼を言う。頬がじわっと赤く染まった。

この距離なら、半端にしか見えなくても、女が恥ずかしがっているのはわかるのだろう。

唇をきゅっと結ぶ仕草が、熟れた桜桃みたいに艶めいて見える。

さっきの、あの意味のわからない口づけが脳裏をよぎる。

今の動きさえ、やたらと色っぽく感じてしまう。

――厄介な女だ。

鈴崎潤は鬱憤を叩きつけるように、トイレの扉を乱暴に閉めた。指先に残る体温が、じわりと熱い。

指を軽く擦り合わせると、その温もりはすぐに消えた。

用を足して戻ると、宝生知優の顔色は少しだけ落ち着いていた。

鈴崎潤はまだ近くに立っている。俊麗で、どこか病的なほど整った顔立ち。彫刻みたいに完成されていて、見ているだけで目が離せない。

この美しさが失われるのは惜しい。

――受け継がせるべきだ。

「潤――」

言いかけた瞬間、鈴崎潤が先に動いた。彼女を横抱きにし、そのままベッドへ運ぶ。

一連の動きに迷いがない。流れるようで、手際がよすぎる。

宝生知優は、ふと疑ってしまう。

この男の目は、本当に悪いのだろうか。

彼女は手を伸ばし、鈴崎潤の前でふわりと振ってみた。

「潤君、目が悪いのに……なんでそんなに手際いいの?」

「欠陥に振り回されるのは愚か者だ。俺は目が悪いだけで、全盲じゃない」

言い返せなかった。

K市で、鈴崎潤の力を知らない者はいない。人生をひっくり返すような変化があっても、自暴自棄にならない男。

――完璧すぎるから、天が意地悪をしたのかもしれない。

そう思ったところで、ドアを叩く音がした。

鈴崎潤の助理が入ってくる。手には分厚い書類の束。

「鈴崎さん、ご依頼の件です。すべてご指示通りに整えました」

鈴崎潤は受け取り、ざっと目を通すと、そのまま宝生知優に手渡した。

「この見合い婚を穏便に続けたいなら、ここに署名しろ」

宝生知優が目を落とす。契約書だった。

彼女は迷いなく末尾に署名し、にこりと笑って差し出す。

「はい、サインした」

その即答に、鈴崎潤はわずかに目つきが変わった。珍しく、少しだけ評価したような。

「今夜、医者が来る。今は休め」

口調が、ほんの少し柔らかい。

宝生知優が布団に顔を埋めたのを見て、鈴崎潤は黙って部屋を出ていった。

広い部屋に残されたのは彼女ひとり。

がらんとした空気が、胸の奥に沈んだ。

夜。

鈴崎家の医者が来て、点滴をしていく。

退屈で仕方なく、宝生知優は野原リリに電話をかけた。

契約を結んだと聞いた野原リリが、興味津々で聞く。

「で、何書かれてたの?」

「四つだけ。鈴崎家の名前を使って外で威張らない。外で私たちの関係を自分から口にしない。それから……彼に親密な接触をしない」

「待って」

野原リリが吹き出す。

「奥さんなのに触れないって、子どもどうするの?」

「たぶん……怖かったんじゃない?」

「まさか強引に襲おうとしたとか?」

「事故だって」

宝生知優は内容そのものには執着しない。結果さえ手に入ればいい。

野原リリが思い出したように言う。

「四つって言ったよね。最後は?」

宝生知優は鼻で小さく笑った。

「『彼を好きにならない』。で、どれか破ったらK市の中心街で2時間ポールダンス」

「幼稚すぎ……」

野原リリが溜息をつく。

「そこまで警戒されて、知優は何が目的なの?」

「顔がいい。死ぬのが早い。金が尽きない」

「でも別の相手でもいいじゃん。あんた、嫁に行けないわけじゃないのに」

「K市で、彼以上に条件が合う男はいないよ」

結婚しても義両親の世話はいらない。自分の世話もいらない。子どもができても、自分で抱えて育てる必要もない。

楽で、自由で、最高だ。

宝生知優が淡々としているほど、野原リリは不安そうだった。

こんなに軽く婚姻を扱う人間がいるのか、と言いたげに。

けれど親友として、踏み込めない一線もある。

通話を終える頃、点滴はほとんど終わっていた。

体の重さが抜けて、随分と楽になる。

医者が瓶を片付けながら、冷えないようにと念を押して帰っていく。

宝生知優はさっぱりと風呂に入り、ベッドで動画を流していた。

そこへ、見知らぬ番号から着信。

迷ってから、通話ボタンを押す。

受話器の向こうから、冷たい声。

「体調は戻ったか」

珍しく気遣われて、宝生知優は一瞬どきりとした。声を甘く柔らかくする。

「うん、だいぶ。潤君がちゃんと面倒見てくれたおかげ。あなたがいなかったら、こんなに早く良くならなかった」

「早く治せ。明日、老宅で食事だ」

……だから連絡してきたのか。

自分の勘違いが恥ずかしい。

「言うべきことと言わないこと。わかっているな」

「わかってる。遅いし、おやすみ」

通話を切り、宝生知優は大きく息を吐いた。

画面に残る番号を見つめ、短く登録する。

鈴崎潤。

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