第1章
絵里視点
汗でぬるりとした手のひらで、私は妊娠検査薬を握りしめた。そこに浮かび上がった二本の赤い線は、残酷なほど鮮やかに、私の愚かさを突きつけてくるようだった。
ボールルームから和也の声が聞こえてくる。「葵は俺の人生の光だ。彼女なくして、この五条ワイナリーの未来を語ることはできません」」
(光?)私は心の中で乾いた笑いを漏らした。(なら、あなたと過ごしたこの十年は、一体なんだったというの?)
テラスを吹き抜ける夜風は冷たい。私はジャケットをきつく体に巻き付けた。五条家のワイナリーのボールルームは煌々と輝き、ブランド物の服に身を包んだ招待客たちが笑い、おしゃべりに興じている。
それなのに私は、まるで衆目に触れてはいけない秘密のように、こうして暗がりに身を潜めている。
指先でプラスチックの検査薬を何度もなぞる。赤い線が魔法のように消えることはない。爪が手のひらに食い込み、痛みを感じるまで力を込めた。
会場を揺るがすほどの拍手と歓声。その音を打ち消すかのように、私の心臓は肋骨の檻を激しく叩いていた。
「絵里さん、あんたがこの十年間、どれだけ大変だったか、みんな見てきたよ」
振り返ると、ワイナリーの古株である幸太さんが、哀れみに満ちた優しい目をして立っていた。
「社長が破産の危機に瀕した時、あんたは大事なお母さんの形見まで売って、必死に支えたじゃないか。それなのに、この仕打ちは……」幸太さんの声が震える。
「やめて」私の声も揺れていた。「言わないで、おじさん。これは、私が選んだことだから」
でも、本当にそうだったのだろうか? ガラス戸越しにステージ上の和也に目を戻す。彼は葵の腰に腕を回し、カメラに向けて完璧な笑みを浮かべていた。
ボールルームの隅で、和也が葵の父――葉巻を手に、仕立ての良いスーツを着た男――と話しているのが見えた。
葵の父が和也の肩を叩き、身を乗り出して囁くのが見える。「話がまとまれば、すぐに二億、回してやる」
和也は頭を下げんばかりに、熱心に頷いた。「葵さんのことは大切にします。一瞬たりとも不快な思いはさせません」
妊娠検査薬を握る指に力がこもる。胸が内側から潰れていくような感覚だった。
(そういうことだったのね)
葵が現れ、和也の腕に自分の腕を絡め、父親に甘えるように唇を尖らせた。「お父様、私のこと一番愛してくれてるってわかってたわ」
父親は目を細めて笑った。「和也くん、約束を忘れるなよ、私の娘はどんな形であれ傷つけてはならん。特に、『余計な人間』に悩まされるようなことはな」
「お約束します」和也は即答した。「どうすべきか、よくわかっています」
(なるほど、あの「光」には二億円の値札がついていたのね)胃の腑が焼けつくような不快感がこみ上げてきた。
もう見ていられなかった。私はテラスからそっと離れ、裏のオフィスへと向かった。二人きりになれば、落ち着いて赤ちゃんのことを話せるはず。そうすればきっと、彼も思い出してくれる。私たちが、ただのビジネスパートナーではなかったことを。
オフィスは薄暗く、パーティーの音楽が薄い壁を通して漏れ聞こえてくる。葵のブランド物のコートが無造作にソファに放り投げられていた。
ドアが開き、和也が入ってきて、一言もなく背後でドアを閉めた。
「和也、話があるの......」
彼はジャケットのポケットに手を入れ、白いピルケースを取り出した。
私の言葉は喉の奥で消えた。
彼は私たちの間のコーヒーテーブルにそのケースを置いた。その目は冷たく、計算高い。
震える指でそれを拾い上げる。ラベルにははっきりと書かれていた。「中絶薬」と。
「それ、堕ろしてくれ」彼の声は、何の感情も含まない事務的な響きだった。「今この妊娠が外に漏れたら、L新聞に『五条酒造の跡取り、乱れた私生活』なんて見出しが躍る。葵さんのお父さんも資金を引き揚げるだろう」
目の前がぐらついた。「あなたの子でもあるのよ……。私たち、十年も一緒にいたじゃない。結婚してくれるって言ったじゃない」
和也は顔をしかめ、苛立ちをあらわにした。「大げさに騒ぐな。会社が安定したら、子供だって作れる。今は、ビジネスが最優先だ」
私は目の前の男を見つめた。私が全てを捧げた人。破産の時も、終わりのない失敗も、そのすべてを隣で支え続けた人。私を愛してくれていると、信じて疑わなかった、ただ一人の人。
「ビジネスが最優先」私はゆっくりと繰り返した。
「その通りだ。今夜、その薬を飲め。それでこの話は終わりだ」
私は妊娠検査薬をコートのポケットに滑り込ませ、ピルケースを手に取った。手の震えは止まっていた。体中の感覚が麻痺してしまったかのようだった。
「わかったわ」
和也の肩から力が抜けた。「いい子だ。わかってくれると思ってた」
私はもう一言も発さず、ドアに向かって歩いた。
「絵里」彼の声に呼び止められた。「結婚式が終われば、また状況は変わる。わかるだろ」
私は振り返らなかった。「そうでしょうね」
私はそのオフィスを出て、ボールルームのそばを通り過ぎた。開いたドアから、葵の甲高い笑い声が聞こえてきた。
「和也、そもそもどうして絵里なんかと付き合ってたの? 彼女が着てるドレス、三年前のよ。恥ずかしい」
和也の笑い声が彼女の声に重なった。「あの頃は若くて馬鹿だったんだ。今は、誰が俺にふさわしいかわかってる」
私は歩き続けた。まっすぐ駐車場へ。煌びやかなBMWやベンツが並ぶその片隅で、ぽつんと停まる私の古びた車を目指して。
車に乗り込み、ドアを閉め、ようやく私は自分に泣くことを許した。
頬を焼くような、静かな涙。肩は震えていたけれど、声は一筋も漏らさなかった。
(十年間の愛も、あなたにとってはただの愚かな過ちだったのね)
私は手の中のピルケースに、そしてポケットの中の妊娠検査薬に目をやった。
二本の赤い線。二つの選択肢。








