第2章
知意は息を呑んだ。蓮の冷たい声が続く。
「四年の契約期間。期限が来た」
彼の目はさらに無機質になる。
「ちょうどいい。子どもを産んだら、離婚しよう」
知意の胸が、鈍く引き攣れた。
三年前、弁護士が差し出した婚前契約書。そこにははっきりと記されていた——婚姻関係は四年。満期になり、別途合意がなければ自動解除。
予感はあった。だが本人の口から突きつけられると、心臓を掴まれる。
知意は顔を上げた。表情は乏しく、震えだけを隠す。
「わかった。でも、子どもが生まれるのを待たなくてもいい。明日、役所に行って先に手続きしても——」
蓮の目が沈む。
「必要ない」
冷たく言い放ち、提案を切り捨てた。
「決めた時期は、決めた時期だ」
その瞬間、着信音が鳴る。
蓮が画面を見た。たった一瞥で、彼の周囲の氷が目に見えて緩んだ。
知意の心が、また沈む。
蓮は通話を繋いだ。
「清香」
その声は、知意が一度も聞いたことのないほど柔らかい。
電話越しに、女の子のすすり泣きがかすかに聞こえた。蓮の注意はすべてそちらへ奪われる。
「大丈夫。もう終わった……うん、怖いよな。心配するな、今すぐ行く」
知意は掌を握り込んだ。
蓮が衣装掛けへ向かい、掛けたばかりのジャケットを取って出ていこうとした、そのとき——
扉が外から押し開けられ、一団が現れた。
源一郎が杖をつき、その後ろに蓮の両親。
正臣は険しい表情。冴子は知意の惨状に真っ先に気づいた。
「どうしたの? ……知意、なんでそんな格好に」
視線が膨らんだ腹に落ち、声色に驚きが混ざる。
源一郎は蓮を見て顔を曇らせた。
「こんな時間に出るのか。家より大事な用事があるのか? 今日はまた揉めたのか?」
そして知意へ視線を移し、声を和らげる。
「知意、今はいちばん大事な身体だ。子どもを第一にしなさい。あまり意地を張るんじゃないぞ、いいな」
知意は睫毛を伏せ、感情をすべて飲み込む。いつもの従順な微笑を貼り付けた。
「ご心配なく。大丈夫です」
そのとき、階下のゲーム部屋から皓が駆け上がってきた。
さっきまでの横暴は消え、妙に愛想のいい顔を作る。
「じいちゃん! 父さん、母さん! 来たんだ!」
源一郎の隣にぴたりと座り、知意をちらり。
「義姉さん、顔色悪くない? 寝てばっかりなんじゃない? 妊娠は大変だけど、ずっと寝てたらだらけるし、赤ちゃんにも良くないよ」
知意の手がきゅっと握られた。言い返す前に、冴子がすぐ乗った。
「皓の言う通りよ。知意、お母さんが言うのもなんだけど、その顔色……」
上から下まで値踏みし、目にわずかな蔑みを走らせる。口調だけは柔らかい。
「休むのも大事だけど、適度な運動も必要なの。産後の回復にも響くし、体型だって戻りにくい。女は身だしなみを整えてこそ……」
意味ありげに蓮を見た。
「……夫に、家のことを思い出させるものよ」
知意の内心で、乾いた笑いが落ちた。
怠けている? 神谷家に嫁いでから、自分のことはもちろん、蓮の身の回り、皓の理不尽、冴子の滞在の雑務——全部、知意が回してきたのに。
「よい」
源一郎が手を振った。
「知意も甘やかされて育った。分からぬのも無理はない。だが動けというなら……」
冴子へ向き直る。
「軽くて手間の少ない仕事を回してやりなさい」
冴子は頷き、窓の外の暗い庭を見て、さも何でもないように言った。
「裏の小さな庭、前に庭師が土を起こした方がいいって言ってたわよね。重労働じゃないし。知意、土を少し耕してきなさい。外の空気も吸えるでしょ」
命令だった。目の軽蔑は隠す気もない。
知意の指先が冷え切る。
豪雨の中から戻ったばかりで、心身ともに限界だ。今はただ横になりたい。
それでも動かない知意を見て、蓮が眉を寄せる。
「母さんが行けって言ってる。行け。何を突っ立ってる」
その瞬間、知意の胸の奥で、何かが完全に消えた。
この家で、彼女はいつだって最優先ではない。
言っても無駄。争っても無駄。
知意は目を伏せ、裏口へ向かった。
知意の背が庭に消えてから、源一郎は蓮へ視線を戻した。慈愛が薄れ、計算の顔になる。
「蓮、お前が白石家の娘を好かぬことは分かっている。心も別にあるのだろう」
蓮は無表情のまま。
「だが離婚は今ではない」
源一郎は遠い目で言った。
「白石家が落ちぶれようと、わしが白石家に救われた恩は外も覚えている。お前は今ようやく信託を押さえたが、盤石ではない。今白石家の娘を追い出せば、外はどう見る? 恩知らずの烙印は、グループの評判を傷つける」
利益と体面だけの言葉。
蓮の瞳が暗く沈む。
しばらくして、彼は短く言った。
「……分かった」
源一郎は満足げに頷き、会社の話を少し交わしてから、正臣と冴子を連れて帰っていった。
皓もさっさと階下へ戻り、またゲーム。
リビングに静けさが戻る。
知意が庭でどれほど過ごしたか分からない。指先が痺れて、ようやく腰を押さえて立ち上がった。
家へ戻ると、リビングには蓮だけがいた。
背を向けて窓辺に立ち、電話をしている。声は相変わらず意図的に優しい。
「……清香、変なこと考えるな」
知意は聞きたくなくて、奥へ進もうとする。
しかし電話の向こうが何か言ったのか、蓮の声が一気に冷えた。
「……何? 本当にあいつが? ……分かった」
通話が切れる。
蓮が勢いよく振り返り、知意を睨みつけた。
知意の足が止まる。
「知意、お前を甘く見てた。そんなに腹黒いとはな!」
知意は目を見開いた。何を言われているのか分からない。
