第3章
知意のその表情を見て、蓮は怒りのあまり鼻で笑った。
「なるほどな。だから祖父たちが急に来たわけだ!」
一歩、また一歩と迫り、顔は恐ろしいほど暗い。
「お前が祖父の前で可哀想ぶって、清香の悪口を吹き込んだんだろ。祖父が人をやって清香を懲らしめさせた。その上、家に来て俺を止めにきた……」
知意は衝撃で声が出なかった。
「ち、違う……」
「黙れ!」
蓮が怒声で遮る。
「その薄汚い偽善面をやめろ。そういう顔を見るほど吐き気がする」
知意の言葉は喉で詰まった。
目の前の、端正なのに憎悪に歪んだ顔。かつて胸を焦がした想いは、とうに擦り潰されて灰になっていた。
蓮は嫌悪の息を吐く。
「警告しておく。今後、清香に近づくな。次は容赦しない」
そう言い捨て、ソファの上着を掴み、知意を一度も見ずに扉を叩きつけて出ていった。
知意は硬直したまま立ち尽くし、涙が何の前触れもなく落ちた。
泣いて、泣いて——ふいに笑ってしまった。
こんな家。こんな夫。
自分は何を惜しんでいたのだろう。
涙を拭い、知意は背を向け、一歩ずつ寝室へ戻った。
……
翌日、知意が目覚めても蓮は帰っていなかった。
胸が慣れた痛みを訴えるが、知意はすぐ気持ちを整え、身支度をして外へ出た。向かったのは指導教官、周藤博仁教授のスタジオだった。
周藤教授は彼女を見るなり驚いた。
「知意? 大丈夫か。……それより、配信を見た。君の脚本がカンヌに残ったそうだな。おめでとう。長いこと、埋もれずに済んだ」
「周藤先生……」
知意は呼び、久しぶりの温かさに鼻の奥がつんとした。
「ありがとうございます」
間を置き、目を強くする。
「先生、私……今の生活を変えたいんです」
周藤教授は察したように息を吐く。
「卒業制作が最高点だった時点で、君に才があるのは分かっていた。惜しかったな……だが、今気づいても遅くない」
そこへ若いディレクターが脚本の草稿を抱え、困った顔で来た。
「先生、この転換点がどうにも腑に落ちなくて……見てもらえますか」
周藤教授は受け取って数枚めくり、知意へ目を向ける。
「知意も見てみるか」
知意は草稿を受け取った。
数分でペンを取り、数行の修正案を書き込む。平板な口論を、感情がぶつかる対峙へと作り替えた。
若いディレクターの目が輝く。
「それです! さすがプロ! 一気に締まりました……すごい!」
周藤教授も見て、賞賛を深める。
そして知意に向き直り、口調を改めた。
「知意。うちのスタジオで新規企画をいくつか走らせている。向こうで小間使いをしているのは勿体ない。こっちで手伝わないか。総脚本の席を用意する」
知意は呆然とし、同時に苦さが込み上げた。
脚本家は、彼女の夢だった。
だが結婚してから蓮の会社で働き、名目は脚本助手。実態は雑用係。
周藤教授の差し出すのは職ではなく、夢への入口だった。
知意は顔を上げ、まっすぐに言った。
「……ありがとうございます。やらせてください」
夕方まで議論を重ね、久々の充実感を抱えて家へ戻る。
蓮はやはりいない。彼にとってここは、ホテル以下なのだろう。
知意は二階へ上がり、パソコンを開き、辞表を書き始めた。
翌日、辞表を鞄に入れ、時間通り神谷シネマズビルへ向かった。
回転扉を抜けた瞬間、人の列に出くわす。
幹部たちに囲まれた蓮が、エレベーターホールから出てくるところだった。眉目は冷たく、威圧感がある。
知意は足を止め、すぐに俯いて脇へ退いた。
結婚四年近いが、社内で二人の関係を知る者はいない。
蓮の視線は知意を“置物”のように掠め、何も留めずに通り過ぎた。
知意は鞄の持ち手を握りしめ、彼らが去ってから自部署のフロアへ向かった。
彼女の席は最奥の暗い角。年中陽が差さない。
私物を簡単にまとめ、辞表を持って部長室へ行き、退職を申し出た。
部長の坂本莉奈は露骨に不機嫌で、辞めさせたがらなかった。
知意は雑用係だが、やることは多く、しかも文句が少ない。いると坂本が楽なのだ。
知意が譲らず、坂本は渋い顔で引き継ぎ一週間を要求した。
「わかりました」知意は頷く。「ありがとうございます、坂本部長」
それから一週間、知意は暗い席で黙々と働いた。
書類整理、データ照合、項目作成……。
その間、蓮の姿は会社でほとんど見なかった。
社内では、「神谷社長は最近、市立病院に頻繁に出入りして、新入りのインターンを付き添っている」という噂が流れていた。
ときおり耳に入る言葉が針のように刺さる。
知意はキーボードを打つ指を止め、息を吸い、また書類へ戻した。
もうすぐ関係なくなる。
ある朝、社内でもっとも採光の良い一角が突然空けられ、総務が慌ただしく出入りし始めた。
新品の家具が運び込まれる。広い無垢の机、高級チェア、キャビネット、ソファ、小型冷蔵庫まで。
飾りや観葉植物も置かれ、机上にはベルベットのジュエリーケースが開いたまま——ダイヤのネックレスと腕時計が眩く光っていた。
片づけが終わると、入口でざわめきが起きた。
知意が顔を上げると、蓮が橘清香を連れて入ってきた。
清香は上質なアイボリーのスーツ。長い髪を肩に流し、羞恥と不安を滲ませながら周囲を見回す。
蓮は彼女を導き、新設の豪奢な個室へまっすぐ向かった。
フロアが一斉に沸く。
「見て、神谷社長の隣の子!」
「あの子でしょ? 橘って子。前にインターンに来て……何かあったって。神谷社長、最近ずっと病院に付き添ってたらしいよ!」
「新しい個室まで用意して、本人が連れてくるとか……待遇えぐい」
「あれもう小型スイートじゃん。可愛がりすぎ」
「未来の社長夫人でしょ。清楚系で運がいいな……」
知意はその個室を見て、自分の席を見た。
鼻の奥が突然つんとし、胸が痛い。
四年前、入社した時、蓮は言った。誰であれ下積みから、インターンから。例外はない——知意も同じだと。
だから彼女は脚本助手になり、雑用係になり、誰も手を出さない端っこの仕事を引き受け続けた。
不満は言わなかった。
でも結果は。
四年近く働いても、まともな席さえ与えられない。
一方、清香は“現れるだけ”で、すべてを手に入れる。
愛があるかないか。その差は天と地。
だから、もっと早く目を覚まして、退くべきだったのだ。
幸い、ここを去る日は近い。
知意は拳を握り、視線を引き戻して作業に戻った。
そのとき、部署の副部長・村上雅がハイヒールを鳴らし、分厚いファイルの山を知意の机に叩きつけた。
「これ全部、今日中に整理して私に送って。退社前、絶対ね」
