第5章
社長室を出た知意は自席へ戻り、ゆっくりと腰を下ろした。
「白石秘書?」
またしても柔らかな声が、すぐ傍で響いた。
目を開けると、清香がすでに隣に立ち、知意の首元にある社員証を見つめていた。
知意は声のする方へ視線を向け、彼女の顔をはっきりと捉えた。
若い。まだ二十代前半だろう。白く滑らかな肌、陶器の人形のように整った顔立ち。上質なスーツが、清楚でありながらどこか庇護欲をそそるような気品を際立たせている。
少し腰をかがめ、心配そうに知意を覗き込む瞳は澄み切っていた。
——こんなに綺麗で、こんなに若いんだ。
蓮が惹かれるのも無理はない。
むくんで憔悴しきった顔、安物のゆったりとしたマタニティ服を着た自分とは、まさに雲泥の差だ。
それと同時に、ひとつの事実がよりはっきりと浮かび上がってきた。
間違いない。自分は以前、この子に会ったことなど一度もない。知り合いであるはずがないのだ。
なら、一体誰が証拠を捏造してまで、知意を『清香を傷つけた黒幕』に仕立て上げたというのか。
「白石秘書、大丈夫?」
黙り込む知意を見て、清香はさらに声を潜めた。
「顔色が真っ白だけど、どこか具合でも悪いの?」
彼女は手にしていた透明の袋を知意の傍らに置いた。
「これ、蓮がもう追及しないって。だから、あまり落ち込まないでね」
知意の視線が袋を掠める。中には、蓮に痛烈に罵られた脚本が入っていた。
清香は柔らかな調子を崩さない。
「お腹が大きいのに働くの、すごく大変だよね。今日みたいなことがあると、気持ちが乱れるのも仕方ないと思う。でも、もう終わったことだから。蓮には私が話をつけておいたし、これ以上言われることはないよ。次からはもっと丁寧にやれば、彼も怒らないから」
完璧だった。誰が聞いても、思いやりのある優しい子にしか見えないだろう。
だが今の知意には、胸の奥に息苦しさだけが溜まっていく。
自分のせいではないのに。
超過の仕事を期限までに終え、丁寧に手直しした脚本を提出したのだ。
誰かがファイルをすり替え、蓮が頭ごなしに決めつけただけだ。
それなのに今、誰もが彼女に非を認めさせようとしている。
どうして? なぜ私が?
知意は袋には触れず、ゆっくりと立ち上がり、清香の変わらぬ優しい眼差しを真っ直ぐに見返した。
「橘さん。お気遣いありがとう。でも、結構です」
清香の顔に浮かんでいた完璧な心配の表情が、一瞬だけ固まった。
知意は続ける。
「もう退社時間です。この資料……」
透明の袋を指差した。
「私はもう直しません」
微かに見開かれた清香の目を見つめ、一語ずつ、きっぱりと言い放つ。
「第一に、これは私の本来の業務ではありません。急に振られた仕事を、私は十分以上にこなしました。第二に、私が提出した修正稿には何の問題もありません。さっき神谷社長が床に投げつけて『ゴミ』と呼んだものは、私が手掛けたものではない。だから、私が反省して直す必要などどこにもないんです」
清香は言葉を失い、整った眉をひそめた。何か言おうとしたが、別の甲高い声に遮られた。
「知意! その態度は何なの?」
莉奈がヒールを鳴らして足早に近づいてくる。
「橘さんが好意で口利きしてくれて、あんたの尻拭いをしてるっていうのに、感謝もしないで嫌味? 何様のつもりよ!」
だが、知意は淡々と莉奈を一瞥しただけだった。
莉奈に向き直るその視線は鋭く、いつもの従順な白石秘書のものではない。
「坂本部長。ちょうどお聞きしたかったんです。今日、退社前に渡されたあの脚本の束、私は指示通りに修正してまとめ、あなたのメールに送りました。そうですよね?」
突然の反撃に、莉奈は一瞬言葉に詰まった。だがすぐに顎をしゃくり上げる。
「それがどうしたのよ! あんたが出したものがダメで、神谷社長が不満を持ったんだから、あんたの責任でしょ!」
知意は冷笑を漏らした。
「私が送った最終版と、さっき神谷社長が私に叩きつけたものは、まったくの別物です。どうして、私があなたに渡したファイルが、穴だらけの駄文にすり替わっているんですか?」
スマホを取り出し、素早く操作して画面を莉奈と清香に向けた。
「午後に送信したメールのスクリーンショットです。更新時間も記録されています。坂本部長、必要なら今ここで本物の修正稿をダウンロードして、比較してみましょうか?」
筋が通っており、確たる証拠もある。
彼女が普段黙って耐えているのは、愚かだからではない。最低限、自分の成果を守る術くらいは持ち合わせているのだ。
莉奈の目が泳いだ。
まさか知意がこんな保険を残しているとは思わなかったのだ。普段はあんなに気弱で、与しやすそうに見えるのに……。
「な……何言ってんの! 自分がミスしたくせに、責任逃れしようとして!」
清香が疑わしげな目を向けているのに気づき、焦った莉奈は言葉を選ばなくなった。
「知意! 人を陥れようとしないでよ! 私があんたを嫌いで何が悪いの! 鏡見なさいよ、豚みたいな顔して! 毎日神谷社長にすり寄って、玉の輿の夢でも見てたんでしょ? 社長があんたなんか相手にするわけないじゃない! 橘さんみたいな人こそ、神谷社長の隣にふさわしいの! あんたは橘さんの靴を持つ資格すらないわ!」
毒気を含んだ言葉が、瞬時に知意の胸を抉った。
知意の身体がふらつき、無意識に両手で腹を庇う。
「坂本部長!」
清香が声を上げた。
「そんな言い方はやめてください。白石秘書も……妊娠中で、気持ちが不安定なのかもしれませんし」
彼女は知意に向き直り、複雑そうな視線を送る。
「白石秘書、落ち着いて。もう退社時間だし、今日は帰ってゆっくり休んで」
またしても、善良で寛大な人を演じている。
知意は清香の美しく無垢な顔と、莉奈の憎悪と怯えが入り混じった顔を見比べ、すべてが滑稽に思えてならなかった。
スマホをしまい、最後に二人を一瞥する。
「……はい。退社します」
そう言い残し、彼女はもう誰のことも相手にせず、腰を押さえながら一歩ずつその場を離れた。
オフィスビルを出て、道端のバス停のベンチに腰を下ろし、布の鞄をしっかりと抱きしめる。
胸の奥から悔しさが込み上げてきた。
どうして、どれだけ努力しても、どれだけ耐え忍んでも、返ってくるのは非難と濡れ衣ばかりなのだろうか。
ただ愛する人を間違え、嫁ぐ家を間違えたというだけで、こんな仕打ちを受けなければならないのだろうか。
バスが到着し、知意はぼんやりとしたまま乗り込んだ。
窓越しに通りを歩く滲んだ人影を眺めていると、思考が勝手に遠のいていく。何年も前の、同じように世界から見放されたと感じたあの雨の夜へ。
彼女は白石家の実子ではない。
迷子になり、児童養護施設の門前に置き去りにされていた。その傍らにあったのは、一枚のぼやけた古い写真だけ。
心優しい白石家の両親が彼女を引き取り、温かい家庭を与えてくれたのだ。
何かに導かれるように、彼女は俯き、古びた革の財布を取り出した。
開くと、そこには色褪せた古い写真が収められている。
写真に写っているのは、一組の幼い男女。男の子は十歳ほど、女の子は四、五歳に見える。おさげ髪の女の子ははにかむように笑い、男の子は妹の肩をしっかりと抱き寄せながら、カメラに向かっておどけた顔をしている。
これが、当時の彼女が身につけていた唯一の手がかりであり、過去や血の繋がった肉親とを結ぶ、たった一つの絆だった。
写真の少女は自分自身で、隣にいるのは実の兄だ。
兄がとても優しく、いつも自分を守ってくれていたことは覚えている。
けれどそれ以外、家がどこにあったのか、両親は誰なのか、どうしてはぐれてしまったのか……そうした肝心な記憶は濃い霧に閉ざされ、どれだけ思い出そうとしても決して掴むことはできなかった。
長年、探し出そうと試みたこともあったが、結局、本当の家族を見つけることはできなかった。
写真の少女は、清らかな眉目をして、屈託のない笑顔を浮かべている。
この数年、彼女は何度もこの写真を見つめ、肉親の顔を想像しては、鏡に映る自分と照らし合わせ、写真と似た面影を探そうとしてきた。
だが、ある事故をきっかけに太ってしまい、顔つきも変わって、今では自分でも見分けがつかないほどになってしまった。
それでも今、感情が激しく揺れ動いた後の恍惚のせいか、写真の少女の眉目を凝視していると、脳裏にふと別の顔がよぎった。
清香の顔だ。
整った眉と目の輪郭、笑った時に微かに弧を描く目尻……。
知意はふと、写真の少女の面影が、若く美しい清香の姿とどこか似ているような気がした。
