第2章
高橋咲良視点
一週間後、私は志部谷の丸井のブティックの前に立っていた。床から天井まである大きな窓ガラス越しに、完璧にセットされた髪の女が、まるでマネキンでも品定めするかのように夫の周りを回っているのが見えた。
夫の新しい「イメージコンサルタント」だという立花莉々が、チャコールグレーのスーツを健太の体に当てがっている。値札が見えた――三十万円。
「高橋さんはもう個人で小規模に開発をしているわけではないのですね」店にそっと足を踏み入れると、立花莉々の声が聞こえた。「15億円の価値がある社長なのですよ。そのイメージを反映させないと」
鏡に映った私に気づいた健太は、顔を赤らめた。「咲良!来てたのか」
私はスターバックスのカップを掲げ、力なく言った。「コーヒーの差し入れ。でも、忙しそうね」
立花莉々はにこやかに微笑んだが、その目は私の頭のてっぺんから爪先までを値踏みしていた――私の安物のジーンズ、セール品のセーター、実用的なナースシューズを。まるで誰かに細かく観察されて、とても居心地が悪かった。
「もうすぐ終わりますから」と彼女は言った。「高橋さんの変身ぶりは、実に素晴らしいですわ」
鏡の中の健太は、まるで別人のようだった。高価なスーツは彼の体に完璧にフィットし、背を高く、自信に満ち溢れているように見せている。彼のオフィスで見かける男性たちのように。
「でも、咲良は俺がジーンズにパーカーを着てるのが好きなんだ」健太が小声で言った。「それが本当の俺だから」
立花莉々の笑い声は、鈴を転がすようでありながら、どこか見下すような響きがあった。「それは昔の高橋さんです。今の高橋さんは松下真理恵のような投資家を引きつけますよ。信じて。彼女はパーカーの男になんて興味ありませんわ」
彼女が松下真理恵の名前を口にしたのを聞いて、背筋がすっと冷たくなるのを感じた。
私はキッチンで夕食の準備をしながら、お祝いになるだろう計画を立てて、胸を躍らせていた。
「ねえ、あなた、パーティーしましょうよ!」キッチンテーブルでノートパソコンに向かって背中を丸めている健太に声をかけた。「真一さんや梨沙ちゃんだって、あなたがどれだけ成功したか見たら、すごく喜ぶわ。それに、専門学校で一緒だった本田拓也くん、覚えてる? あなたのこと、気にしてたわよ」
健太の指がタイピングをやめた。「咲良、俺のイベントに専門学校の人間なんて呼べるわけないだろ。もしVCがSNSでそんな写真を見たらどうするんだ?」
私の手にあった木べらが止まった。「『そんな人たち』って? 健太、彼らは私たちの友達でしょ。私たちが何もない時から支えてくれたじゃない」
「それこそが問題なんだ」彼は画面から目を上げようともしなかった。「今の俺は、付き合う人間を選ぶ必要があるんだよ」
リビングから、恵美が呼びかけた。「お父さん!パーティーに、学校のお友達を呼んでもいい?」
「パーティーどころじゃないんだ」健太は平坦な声で答えた。
キッチンの戸口から、五歳の娘の顔が曇るのが見えた。私が計画しているのを小耳に挟んで、あんなに楽しみにしていたのに。
「健太」私は慎重に言った。「あの子は、ただあなたと一緒にお祝いしたいだけなのよ」
彼は言った。「咲良、君には俺が抱えているプレッシャーが分からないんだ。この業界ではイメージが全てなんだよ」
かつては土曜の朝になると恵美と一緒に毛布で秘密基地を作っていた男が、誰も彼を信じなかった頃に信じてくれた人々のために、一晩の時間さえ割こうとしない。
一ヶ月後、私は恵美の保護者面談で、小さなプラスチックの椅子に一人で座っていた。他の夫婦が海野先生と子供の成長について話しているのを、ただ眺めていた。
「恵美ちゃん、お父さんのご成功をよく話してくれますよ」海野先生が優しく言った。「ぜひ一度、クラスでテクノロジー関連のお仕事についてお話していただけたら嬉しいのですが」
私の頬が熱くなった。「主人は……会社のことでとても忙しくて。また、次の機会にでも」
「お母さん」恵美が私の袖を引っ張りながら、ささやいた。「どうして、お父さんはほかのお父さんみたいに学校に来てくれないの?」
「お父さんは恵美のことが大好きなのよ」私は胸が張り裂けそうになりながら言った。「ただ、すごく一生懸命お仕事をしてるだけなの」
教室の壁には、恵美が最近描いた絵が他の子の作品と一緒に飾られていた。題名は『私の家族』
絵には、私と手をつないでいる恵美の姿が描かれていたが、お父さんがいるはずの場所は、不自然なほど空白だった――三人目がいるべき場所は、ただの白い画用紙のままだった。
海野先生は私の視線を追った。「恵美ちゃん、最近は二人家族の絵をよく描くんですよ。お父様が出張で頻繁に家を空けられるご家庭では、よくあることなんです」
その日の夜、恵美と私はソファに丸まってディズニープラスを観ていた。その時、娘がリモコンを掴んで、誤ってライブ配信に切り替えてしまった。
画面に「テッククランチ」という文字が点滅し、そこに夫がいた。パネルディスカッションに参加している彼は、新しいスーツに身を包み、信じられないほど洗練されて見えた。髪は完璧にセットされ、姿勢には自信がみなぎっている。あのステージこそが彼の居場所であるかのように見えた。
「お父さん!」恵美が画面を指さして、甲高い声をあげた。
取材者が身を乗り出した。「高橋さん、この素晴らしい成功と、私生活とのバランスはどのように取られているのですか?」
私の夫――この二週間、私たちと一緒に夕食をとっていない夫が――カメラに向かってまっすぐに微笑んだ。
彼は言った。「私は『心の絆』の構築に百パーセント集中しています。個人的な人間関係に気を取られている余裕は、今の私にはありません」
「では、奥さんやお子さんに足を引っ張られることもないと?」取材者はさらに突っ込んだ。
健太の笑い声は、気軽で、何かをはねのけるような響きがあった。「いませんね。私は仕事と結婚しているんです。ユニコーン企業を築くには、それが必要なんです」
恵美が私を見上げた。小さな眉が寄せられている。「お父さん、家族はいないって言ったよ。でも、私たちは家族だよね、お母さん?」
言葉が出なかった。息もできなかった。全国放送のテレビで、何千人もの視聴者の前で、健太は私たちの存在を完全に消し去ってしまった。
「お父さんは……お仕事のために、ごっこ遊びをしてるだけよ」私はなんとかそう言ったが、その言葉は空虚に感じた。
その夜、私はベッドで眠ったふりをしていた。隣で健太がスマートフォンをスクロールしている。数秒ごとに青白い光が彼の顔を照らし、彼が画面の何かを見て微笑んでいるのが見えた。
十一時半、彼のスマホがメッセージの着信で震えた。かろうじて開けた瞼の隙間から、彼がそれを読むのを見ていた。彼の顔が、クリスマスの朝のようにぱっと明るくなる。
松下真理恵から。「日経テクノロジー、おめでとう!明日、月見亭で夕食でもどう? ライジングスターへのお祝いよ 」
血の気が引いた。月見亭――予約に数ヶ月はかかる、ミシュラン三つ星のレストラン。
健太の指がキーボードの上を飛ぶように動いた。「ぜひ。誘ってくれてありがとう ❤️」
ハートの絵文字。他の女に。私がほんの数センチ先で、眠ったふりをしているというのに。
彼が会話の履歴をすべて削除するのを見ていた。私が見ていないとでも思っているのだろう。彼がスマホをマナーモードにしたことに、私が気づかないほど愚かだとでも思っているのだろう。
健太がナイトスタンドにスマホを慎重に伏せて置いた時、私の心は床に沈んでいった。かつては一日の出来事を何から何まで話してくれた、仕事のメールひとつ隠したことのなかった男が、今では国家機密のようにスマホを守っている。
車庫で一緒にインスタントラーメンを食べながら、世界を変えることを夢見ていたプログラマーは、もう完全に消えてしまったのだと悟った。彼のいた場所には、見知らぬ他人が横たわっていた――私の知らない銀坂の社長が。恵美と私が、彼の成功のアルゴリズムにとってただの障害でしかない人生を、彼は学んでいるのだ。





