第4章
祝賀会の会場は、北峰市でも最高級とされる7つ星ホテルだった。宴会場のシャンデリアはきらめき、香水と高級スーツの気配が入り混じり、グラスが触れ合う音が絶えない。
これは、浅沢瑶が盛岡エンターテインメントのPR部長として手がける、最後のイベントだった。
彼女は黒のきちんとしたスーツを身にまとい、会場の中を歩き回る。スタッフに的確に指示を出し、すべての段取りが滞りなく進むよう、隙なく目を配っていた。
抗癌剤治療のせいで顔色はますます悪くなっており、それを隠すには厚いファンデーションが必要だった。胃の奥のきりきりした痛みも、歯を食いしばって押し込める。
まるで精密に動く機械のように。
顔には、非の打ちどころのない仕事用の笑み。
今夜の主役は、盛岡晃と宇佐美萌だ。
夜8時。二人は腕を組んで入場し、たちまち会場中の視線を集めた。
盛岡晃は仕立てのいい黒の高級スーツに身を包み、背筋はまっすぐで、非の打ちどころなく美しい。
一方の宇佐美萌は、鮮やかな赤のベアトップドレス。裾には無数のラインストーンが散りばめられ、光を受けてきらきらと輝いている。白い肌をいっそう際立たせ、その美貌はまばゆいばかりだった。
盛岡晃は彼女を至れり尽くせりで守っていた。押し寄せる記者をさりげなく手で遮り、耳もとで何か囁くその眉間には、浅沢瑶が一度も見たことのない柔らかな色が宿っている。
二人は並び立つだけで、まるで完璧な一組の恋人のようだった。
あらゆる祝福と羨望を浴びながら。
遠くからその光景を見つめる浅沢瑶の胸は、見えない手で強く握りしめられたように痛んだ。息をするのも苦しいほどに。
法的には正真正銘の盛岡夫人であるはずの自分が、今この瞬間だけはただの部外者だ。
隅っこでひっそり立ちながら、自分の夫が別の女と愛を演じるのを見せつけられている。
彼女は深く息を吸い、シャンパンを手に取った。
表情を整え、PR部長として二人のもとへ歩み寄る。
「盛岡社長、宇佐美さん」
軽く頭を下げる。笑みは標準的で、どこまでもよそよそしい。
「メディアの取材エリアの準備が整っています。いつ移動されますか」
盛岡晃の視線が彼女に落ちる。そのわずかに残っていた温度は一瞬で消え、残ったのは値踏みするような冷ややかさと苛立ちだった。
「そんな小さなことまで俺が決める必要があるのか」
浅沢瑶の指先が、わずかにきゅっと丸まる。
心臓がまたひとつ、刺された。
返事をする前に、宇佐美萌が親しげに盛岡晃の腕へ絡みつき、甘えるように笑った。
「晃、そんなにきつく言わないで。瑶、このパーティーのためにすごく大変だったはずよ。見て、顔色まで悪いじゃない」
そう言ってから、彼女は浅沢瑶へ向き直る。
その目には、勝者だけが持つ見せびらかしと、薄い憐れみが混じっていた。
「瑶、本当にお疲れさま。そうだ、ちょっと見てくれる? このドレス、素敵でしょ。晃がわざわざ人に頼んで作らせてくれたの」
否応なく彼女へ向けられた視線が、次の瞬間、ぴたりと凍りつく。
宇佐美萌が何気ない仕草で髪をかき上げた拍子に、左手の薬指が見えた。
そこには、一つの指輪。
男性向けのシンプルなリング。プラチナのリングに平行する二本のラインが刻まれているだけの、簡素で、それでいて品のあるデザイン。
浅沢瑶の瞳孔が、ぎゅっと縮まった。
全身の血が、その瞬間に凍りついたかのようだった。
この指輪を、彼女は死んでも忘れない。
18歳の誕生日に、何度も何度も徹夜して、自分でデザインを描き、最高の職人に頼んで作ってもらったもの。
盛岡晃へ贈るはずだった、たったひとつのプレゼント。
ありったけの勇気で想いを告げた証であり、惨めな片想いの始まりでもある。
あのときの盛岡晃を、彼女ははっきり覚えている。
指輪を目にした瞬間、その目から優しさが消え、残ったのは氷のような怒りだけだった。
――馬鹿げてる。自分の立場を忘れるな。
そう言って彼は、彼女のすべての恥も屈辱も詰まったその指輪を、嫌悪するように床へ投げ捨てた。
その指輪が今、何事もなかったかのように宇佐美萌の指に収まっている。
つまり彼は、あれが嫌いだったわけじゃない。
彼女から贈られるのが、嫌だっただけだ。
捨てたわけでもない。
ただ、自分の愛する女に横流ししただけ。
盛岡晃はいったいどれほど自分を嫌っていたのだろう。
こんな形で罰を与え、最後に残った彼女の尊厳と恋心まで、無慈悲に踏みにじるほどに。
過去のあれこれが、映画の早回しみたいに脳裏を駆け抜けていく。
彼はかつて、彼女のために喧嘩をし、大金をはたいて名医を呼び寄せ、彼女の名を星につけてくれた……掌の上に乗せるような寵愛。それがあったから、自分は特別なのだと錯覚した。
なのに最後には、そのすべてが最も鋭い刃となって、自分をずたずたに切り裂いた。
胸の奥のあの馴染み深い痛みが、また襲ってくる。
これまでのどの時よりも、激しく。
極限まで痛むと、逆に人は妙に冷静になるらしい。
――もういい。
――これでいい。
未練も、期待も、この瞬間、完全に断ち切られた。
もう何も、残っていない。
「とてもお似合いです」
浅沢瑶は、自分の声を聞いた。
驚くほど静かで、少しの揺れもない声だった。
彼女は目を上げ、まっすぐ盛岡晃を見つめ、一語一語、はっきりと言う。
「お二人は、本当にぴったりです」
盛岡晃はその視線に、なぜか眉をひそめた。
いつもなら恋慕と依存で満ちているはずのその瞳が、今は底知れない古井戸のように、ただ死んでいる。
「また何を企んでる」
冷たく問い質されても、浅沢瑶はただ淡く笑っただけだった。
その笑みには、彼の理解できない解放感と、深い悲しみが滲んでいる。
彼女は何も答えず、くるりと背を向け、宴会場のテラスへ向かう。
ひんやりした夜風が、身にまとった酒気を少しだけ散らし、濁っていた頭を冴えさせた。
取り出したスマホの画面には、すでに予約済みの海外行き航空券。
それを見つめる目に、揺るぎない決意が宿る。
パーティーが半ばを過ぎた頃。
浅沢瑶は盛岡晃が休憩室へ向かおうとしたところで、その進路を静かに塞いだ。
「盛岡社長」
彼の前に立つ顔には、これまで見せたことのない静けさがあった。
盛岡晃は不機嫌そうに立ち止まる。
「今度は何だ」
「私たち、離婚しましょう」
その五文字は、あまりにも軽く放たれた。
けれど雷鳴のように、盛岡晃の耳で炸裂した。
彼は一瞬、言葉を失う。
次いで、途方もない冗談でも聞いたかのように、皮肉げに口元を歪めた。
「浅沢瑶、おまえ、自分が何様だと思ってる。辞職だの何だので拗ねるだけじゃ足りなくて、今度は離婚で俺を脅す気か」
「脅してなんかいません」
浅沢瑶は目を上げ、彼の驚きと怒りの入り混じった視線を、静かに受け止める。
「本気です。離婚協議書はできるだけ早く作成します。あなたの弁護士の連絡先を教えてください。こちらの弁護士から直接やり取りさせます」
その落ち着きと断固たる態度が、盛岡晃の胸に得体の知れない怒りを灯した。
この女は、いつだって自分の言うことを聞いてきたはずだ。
いつからこんな口の利き方をするようになった。
彼は一歩詰め寄る。まとわりつくような圧が全身からにじみ出ていた。
「浅沢瑶、警告しておく。余計な考えは捨てろ。離婚だと? 寝言は寝て言え」
どうして彼女の好き勝手にされなければならない。
結婚したいと言ったのも彼女、離れたいと言い出したのも彼女。
二人は長い時間を共にしてきた。浅沢瑶に対して自分が何を抱いているのか、盛岡晃自身にもよくわからない。
愛していると言うには、あまりにも無理がある。
愛していないと言い切るには、彼女が本当に自分と離婚して、やがて他の男のものになるかもしれないと想像しただけで、胸のどこかが妙にざわついた。
その相反する感情が絡み合い、ひどく不快だった。
けれど浅沢瑶は、ただ静かに彼を見ているだけだった。
その瞳には、もう何の波紋もない。
そして彼女は、そっと言った。
「盛岡晃。これは相談じゃありません。ただの通知です」
