第6章
しっかりとした、温かな腕の中。
かつて浅沢瑶が何より恋い焦がれた安息の場所は、今や彼女を縛る檻でしかなかった。
突然の行動に心臓がひとつ大きく跳ねる。けれど次の瞬間には、彼女は力いっぱい身をよじり、弱々しくも必死にその胸を押し返した。
「降ろして!」
盛岡晃は聞こえないふりを決め込み、大股で寝室へ戻る。そして優しさの欠片もなく、彼女を大きなベッドへ放り出した。
マットレスは柔らかかった。それでも、落ちていく彼女の心までは受け止めてくれない。
彼はそのまま身を乗り出し、両手を彼女の左右につく。高い体躯が完全に彼女を覆い、重たい影を落とした。見下ろしてくる黒い瞳には、怒りと嘲りが渦巻いている。
「どうした。今じゃ、俺と同じ部屋にいるのも耐えられないのか」
薄い唇に残酷な弧が浮かぶ。吐き出される言葉は、毒を塗った刃そのものだった。
「それとも俺じゃ足りなかったか? 寂しさを紛らわすために、外で適当な男でも見つけたのか。浅沢瑶、おまえはそこまで堕ちたのか」
「違う!」
羞恥と屈辱が一気に押し寄せ、浅沢瑶は全身を震わせた。青白い顔に、恥辱の赤みがさっと差す。
「そんな人じゃない……あの人は私の主治医よ!」
「主治医?」
盛岡晃は、さも可笑しいものでも聞いたように鼻で笑う。
「夜中におまえへ電話をかけてくる主治医か? 駐車場で抱き合っていた主治医か? 浅沢瑶、おまえの嘘もだいぶ安っぽくなったな」
信じていない。
彼にとって彼女の言葉は、何もかもがその場しのぎの言い訳でしかないのだ。
浅沢瑶の心は、音もなく深い底へ沈んだ。もう弁解する気力すら湧かない。
そのときまた、胃の奥に激痛が走る。額には汗が滲み、顔は紙のように白くなった。
体を縮め、呼吸すら震えを抑えられない。
盛岡晃の怒りは、そんな彼女の脆さを見た瞬間、なぜか一瞬だけ止まった。
彼は苛立たしげに眉をひそめる。胸の内に荒れ狂う名のない怒りは消えない。だが彼女の顎を掴もうと伸ばしかけた手は、空中で止まり、そのまま乱暴に自分の髪をかき上げるだけに終わった。
やがて彼は身を起こし、無言で上着を脱ぐ。そのまま布団をめくって彼女の隣へ横たわった。
二人の間に横たわる深い溝などなかったかのように、彼女を布団ごと腕の中へ引き寄せた。決して優しい動きではない。どこか罰を与えるような、強引な抱き寄せ方。
「大人しくしてろ」
耳もとに落ちた声は、冷たく、横暴だった。
浅沢瑶は彼の腕の中で、硬直したまま動けない。
それはもう、温もりのある庇護ではない。煌びやかな牢獄。
彼女は彼に背を向けたまま、空っぽの目で窓の外の濃い夜を見つめ続けた。
説明しても無駄。抗っても意味がない。
かつて神であり救いであった男は、今や苦しみの根そのものになっている。
これまでにないほどの疲労と無力感が全身を満たし、すべての力が抜けていく。このまま深く眠って、二度と目を覚まさなければいいのに。
その夜、二人は同じ床で、別々の夢を見た。
翌朝。目を覚ましたとき、隣の場所はもう冷え切っていた。
盛岡晃はいつの間にか出ていっていて、言葉のひとつも残していない。
胃の中は空っぽで、ひそかな酸の痛みだけが残る。まるで食欲は湧かなかった。
それでも彼女は体を引きずるように起き上がり、身支度を整える。きっちりした仕事着に着替え、厚いファンデーションで病的なやつれを塗りつぶす。
退職までに、まだ最後の引き継ぎが残っている。最後の最後まで、自分の持ち場は守らなければならない。
胸の奥で荒れ狂う感情を押し殺し、浅沢瑶は静かに車で会社へ向かった。
駐車を済ませ、ビルへ向かって歩き出す。朝から何も口にしていないことと、病状の悪化が重なったのだろう。不意に激しい眩暈が襲い、視界が真っ黒になった。
足元がぐらりと揺れる。
――キィィッ!
耳をつんざく急ブレーキの音が、朝の静けさを切り裂いた。真っ赤なポルシェが、彼女の目の前すれすれで止まる。ボンネットと膝の距離は、ほんの数センチしかない。
心臓が止まりかけるほど驚き、浅沢瑶の顔はさっと青ざめた。
ドアがバンと乱暴に開く。派手な身なりの若い女が、怒りをむき出しにして降りてきた。そしていきなり彼女の鼻先を指差し、喚き立てる。
「目ついてないの!? 死にたいなら勝手に死んでよ、私の車に当たり屋しないでくれる? この車いくらするか知ってる? ぶつけたらあんたに払えるの?」
もともと眩暈でふらついていたところへ、その怒声。浅沢瑶はますます目の前が暗くなり、街路樹に手をついてやっと立っていられる状態だった。言い返す余裕などない。
相手は彼女が黙っているのを後ろめたさと受け取ったのか、ますます調子づく。
「何よ、黙っちゃって。やっぱりわざとでしょ? 見た目だけはちゃんとしてるくせに、やることは当たり屋とか最低なんだけど!」
周囲には、じわじわと野次馬が集まり始めていた。ひそひそと指をさされる。
何を言っても通じない。そんな屈辱と無力感に押しつぶされそうになった、そのとき。
凛とした、耳に心地よい女の声が響いた。強い意志をはらんだ、容赦のない声音。
「交差点の監視カメラには全部映っていますよ。信号無視して人を轢きかけたのはあなたでしょう。なのに先に被害者ぶるつもりですか」
声のしたほうを見ると、一台の控えめな黒いベントレーが路肩に停まっていた。そこから、高級なスーツ姿の女が降りてくる。
年は三十前後だろうか。ゆるく巻かれた長い髪、隙のないメイク。眉目には生まれつきの自信と距離感があり、その場の空気を一変させるほどの強い気配をまとっていた。
彼女はまっすぐ浅沢瑶のもとへ歩み寄り、その背後へさりげなく立つ。そして冷えた視線をポルシェの女へ向け、淡々と言った。
「道路交通法では、横断歩道に接近する車両は減速義務があります。あなたは速度超過のうえに信号無視。まずは私の友人に謝罪するのが筋では?」
ポルシェの女は、その圧倒的な気迫にたじろいだ。全身の装いから所作まで、どこを取っても一流。自分が軽々しく喧嘩を売っていい相手ではないと、さすがにわかったのだろう。
それでも女は強がった。
「誰よあんた。信号無視? どの目で見たっていうの」
「交差点のカメラと、私のドライブレコーダーのバックアップが見ました」
女は赤い唇を開き、平坦な口調のまま、ひとつひとつを鮮明に言い切る。
「必要なら警察を呼んで映像を確認してもらいましょうか。それとも私の弁護士から直接お話しさせてもいいですよ。危険運転と悪質な名誉毀損、その賠償について」
ひと言ごとに、ポルシェの女の顔が白くなっていく。
明らかに、自分が敵う相手ではない。
結局、彼女は悔しそうに浅沢瑶をひと睨みしただけで、そそくさと車へ戻り、逃げるように走り去った。
その女が去るやいなや、目の前の女性は振り返る。さっきまで氷のように鋭かった眼差しは、嘘みたいにやわらぎ、残ったのはあきれと深い心配だけだった。彼女はふらつく浅沢瑶を支え、眉をひそめる。
「何年ぶりかと思えば、こんな有様? 大通りであんなふうに絡まれて、言い返しもできないなんて。いったいどうしてここまでやつれてるのよ」
見慣れた、華やかで明るい顔。その懐かしさに、浅沢瑶の鼻の奥がつんと痛んだ。泣きそうな顔で、無理やり笑みを作る。
「西園寺凛……帰ってきたのね」
