第2章

彼女は踵を返し、よろめく足取りながらも確固たる意志でその場を去った。

鴉崎家の別荘に戻ると、ガランとしたリビングが皮肉のように彼女を迎えた。ここには家庭の温もりなど一度もなく、あるのは果てしない冷気と孤独だけ。

掌に残る爪痕と血を見つめながら、心の中の決意が鮮明になっていく。

「出るのよ、今すぐに……」

彼女は心の中でそう繰り返した。

鴉崎響から離れる。この苦痛に満ちた結婚から逃げ出す。

そうでなければ、この絶望の泥沼で死んでしまうだろう。

月見華は涙を拭い、書斎でパソコンを開いた。

一文字ずつ、打ち込んでいく――離婚協議書。

内容はシンプルで、三十分もかからずに完成した。

財産分与は一切求めない。身一つで出て行く。

この結末こそ、鴉崎響が望んでいたことだろう。

心神耗弱していたせいか、印刷を終えた後、月見華は宛先を誤って月見家の実家にしてしまった。

そのため、最初にこの離婚協議書を目にしたのは鴉崎響ではなく、藍原蛍だった。

翌日、空が白み始めた頃、鴉崎家の別荘のドアが激しく叩かれた。

一睡もしていなかった月見華が、やつれた顔でドアを開ける。

その瞬間、強烈な平手打ちが飛んできた。

「月見華! この親不孝者が! 説明しなさい! これは何なの!?」

激怒した藍原蛍が離婚協議書を月見華に投げつけ、紙が床に散乱した。

月見華は呆然とし、床に散らばった「離婚」の文字を見て心臓が凍りついた。

「お母さん、私は……」

「私じゃないわよ!」

藍原蛍は弁解の余地を与えず、指を突きつけて罵倒した。

「誰の許しを得て離婚なんて言い出したの? 離婚したら、家族全員が路頭に迷うのが分からないの!?」

「鴉崎家が貰ってくれたのは、あんたの身に余る幸運なのよ! その顔以外に何の取り柄があるの? 身持ちの悪い傷物のくせに、何様のつもり!?」

その言葉の一つ一つが、焼きごてのように月見華の心を焼いた。

長年積もり積もった屈辱と怒りが、この瞬間、爆発した。

彼女は顔を上げ、初めて氷のような瞳で母親を直視した。

「幸運? 手術台の上でなすがままにされるのが幸運? 夫に人前で犬のように辱められるのが幸運? それとも、淫乱女と罵られるのが幸運なの!? そんな幸運、私はいらないわ」

藍原蛍は驚いて一歩後ずさったが、すぐにさらに激しい怒りが湧き上がった。

「口答えする気!? 月見家が養ってやったからこそ、あんたは……」

「だから何? 死ねばよかったの? そのほうが、今こうして生きているよりマシよ!」

月見華が激昂して遮った瞬間、目の前が真っ暗になった。

激しい目眩と共に、眼球に針で刺されたような激痛が走る。

彼女は悲鳴を上げ、両目を押さえてよろめき、玄関の棚に激突した。

飾ってあった花瓶が落ち、粉々に砕け散る。

「仮病はやめなさい! 立ちなさいよ!」

藍原蛍は演技だと思ったが、すぐに異変に気づいた。

月見華は脂汗を流し、苦痛に顔を歪めて目を固く閉じている。

藍原蛍は一瞬狼狽えたが、すぐに冷酷な声色に戻った。

「親の言うことを聞かないからバチが当たったのよ! いいこと、月見華。もし鴉崎響と離婚なんてしたら、今より一千倍も一万倍も惨めなことになるわよ! 目が潰れようが野垂れ死のうが、誰も見向きもしないからね!」

月見華の耳にその言葉が届き、心まで冷え切った。

眼球の痛みが少し引き、視力が戻り始めると、彼女は床から這い上がり、壁にもたれて荒い息を吐いた。

「気が済みましたか?」声は酷くかすれていた。「済んだなら、出て行ってください」

藍原蛍はまだ何か言いたげだったが、月見華の虚ろな瞳に気圧され、最後には「勝手になさい」と捨て台詞を吐いて出て行った。

広い別荘に静寂が戻る。

月見華は手探りで床の離婚協議書を拾い集め、胸に抱きしめた。

病院へ向かう道中。

彼女は携帯を取り出し、暗記している番号をダイヤルした。

長いコールの後、ようやく電話がつながった。

向こうから、鴉崎響の冷淡で不機嫌な声が響く。「なんだ? 忙しいんだが」

月見華は深く息を吸い込んだ。

「鴉崎響、離婚しましょう。協議書は用意しました。私は何もいりません」

電話の向こうで数秒の沈黙があり、次いで冷笑が聞こえた。

「また気を引くための駆け引きか? それとも月見家が新しい手でも考えたのか? そんなことで俺が振り向くとでも?」

「そんなに別れたいなら、いいだろう。望み通りにしてやる。後悔するなよ」

電話が切れた。

月見華はゆっくりと携帯を下ろした。表情はない。

後悔?

彼女が後悔しているのは、もっと早く離れなかったことだけだ。

離婚の話は、呆気ないほど簡単に決まった。

月見華はそのことを藍原蛍に伝えたが、母の激怒にはもう反応しなかった。

てっきり天変地異が起きるほど騒ぐかと思われたが、二日後、藍原蛍から電話がかかってきた。

その声は珍しく穏やかで、どこか機嫌を取るような響きさえあった。

「華ちゃん、この前はお母さんが悪かったわ。焦ってしまって、あなたの気持ちを考えてあげられなかった。あなたが辛くて離婚したいなら、お母さんは応援するわ。荷物をまとめて帰ってらっしゃい。今夜一緒に食事でもしましょう。話したいことがたくさんあるの」

月見華は唇を引き結び、胸の奥に微かな予感を覚えた。

だが、長年渇望してきた家族の情愛が、彼女に一縷の期待を抱かせた。

もしかしたら離婚を機に、母との関係も修復できるかもしれない。

長い沈黙の後、月見華は答えた。「分かったわ」

電話を切り、微かに熱を持った携帯を握りしめながら、彼女は整然とした部屋を見回した。

傍らには小さなスーツケースが一つ。

離婚を決めた以上、ここに留まる理由はない。

胸の痛みを押し殺し、月見華は小さくため息をつくと、スーツケースを引いて重い扉を閉めた。

数時間後、夜の帳が下りた頃。

鴉崎家の別荘の扉が再び開き、鴉崎響が帰宅した。

眉間の痛みを揉みほぐしながら中に入ると、家の中は空っぽで、苛立つほどの静寂に包まれていた。

普段なら、数少ない帰宅時には月見華がエプロン姿でキッチンに立ち、明かりが灯り、生活の匂いがしたものだ。

だが今日は、あの女、離婚騒動に味を占めて、今度は家出ごっこか。

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