第1章
「林原撫子。――その男を殺したとき、相手には抵抗する力がありましたか。あなたの身の安全は、深刻に脅かされていましたか」
「この二つは、よく考えてから答えてください。事件の性質が変わります。正当防衛か、それとも――違うのか」
取調室。被疑者席に座る林原撫子は、どうしていいかわからないまま顔を上げた。頬を照らすスタンドライト。向かいに並ぶ、厳しい警察官の顔が二つ。
指先がぴくりと動き、手首の手錠がかちゃりと鳴る。乾いた唇を無理やり開いた。
「わたし……」
ずいぶん長いあいだ声を出していなかったのだろう。精神も、まともに立っていない。乱れた髪が頬に貼りつき、服は穴だらけ。露出した肌には幾重もの傷が走り、青紫の痣の上に瘡蓋が重なっている。ひと目で、常人の想像を超える仕打ちを受けてきたとわかった。
手錠で椅子に固定されていなければ、彼女はとっくに隅へ縮こまっていたはずだ。これまで殴られたときと同じように。
男の警察官が書類を取り上げ、硬い声で言った。
「これは、あなたが殺害した男性の検視報告書です。損傷は凄惨で、目を背けたくなる。現時点では、過剰防衛の可能性が高い。事件の性質が確定すれば、あなたは法的責任を負うことになります」
撫子が口を開くより早く、隣の女警察官が堪えきれないように声を荒らげた。
「その男は畜生よ! 人の皮をかぶった悪魔! あれだけの悪事を働いておいて、百回死んだって足りない!」
男の警察官が冷たく言い放つ。
「落ち着け。仕事中だ。個人的感情を事件に持ち込むな」
「どうやって落ち着けっていうの? あのクズが、どれだけ無関係な人を傷つけたと思ってるのよ。地獄に落ちるべき!」
激しい声に、撫子は首を傾けた。乾いた血がこびりついた自分の手を見つめた瞬間、血だまりの中に倒れていた女の姿が脳裏に蘇る。
――地下室。
犯罪組織に囚われていたのは、撫子だけではなかった。
数百人の女が、陽の当たらない狭い隅に押し込められていた。湿って冷たい空気。闇。逃げ場のない絶望。連中は彼女たちを家畜みたいに扱い、気に入らなければ平然と殴り、蹴った。壁に掛けられた鞭には倒刺があり、その隣には何本もの電撃棒が並んでいた。
閉じ込められた者たちの表情は、揃って虚ろで麻痺していた。瞳にあるのは、ただ諦めだけ。
撫子も、その中にいた。
毎日鞭で打たれ、組織は彼女たちを飼い慣らそうとした。ペットのように従順に。命令に逆らわないように。
そんな中で、ただ一人だけ。撫子に優しくしてくれた女がいた。痩せて弱々しいのに、毎日こっそり自分の食事を一口分残してくれた。あの人がいなければ、撫子はとっくに死んでいた。
けれど――その女は、刃物に倒れた。
その日のことは、もう曖昧だ。
ただ、辺り一面が赤く染まり、血の匂いがして、四方から押し寄せる赤が撫子を飲み込もうとしていたことだけ覚えている。
意識が戻ったとき、目の前にいたのは、何百回も刺され、もう二度と動かない男だった。
握っていた刃物は、相手の手から奪い取ったものだった。
女警察官は、虚ろな目の撫子を見て胸を痛めたのか、声を和らげた。
「詳しい経緯は、こちらで把握してる。……ひとまず帰っていいわ。追加で確認が必要になったら、また連絡するから」
撫子は黙ったまま立ち上がる。女警察官が手錠を外した。
警察署を出た瞬間、頭上から陽光が降り注ぎ、撫子は反射的に手で遮った。
長い監禁生活のせいで、光に慣れていない。
目が慣れて手を下ろすと、ちょうど一台のマイバッハが警察署の前から走り去っていくところだった。
あの車だ。
あの車の人物が、撫子を深淵から引き上げ、そして警察署へ連れてきた。
女警察官が隣で尋ねる。
「体に血がこびりついてる。洗い流したほうがいいんじゃない? 休憩室、用意するけど」
撫子はゆっくり首を振った。声は掠れている。
「家で洗いたいです。……ありがとうございます」
「そう。ご両親、あなたが帰ってきたらきっと喜ぶわ」
撫子は小さく唇を持ち上げた。
帰ること。それだけが、今まで踏ん張れた唯一の理由だった。
林原家へ向かう道すがら、胸の奥は不思議なくらい軽かった。檻から逃げ出した鳥みたいに。
ようやく、家族のもとへ戻れる――。
けれど、門の向こうの空気は、想像していたものと正反対だった。
やけに賑やかで、華やいでいる。どうやら今日は、林原家の宴会の日らしい。
撫子は無意識に、まだ腫れの引かない腕の鞭痕へ視線を落とした。ここは確かに自分の家のはずなのに、なぜだろう。足が鉛みたいに重くて、踏み出せない。
大規模な宴会で、門前はひっきりなしに人が出入りしていた。
ほどなくして、彼女に気づく者が現れる。
「なんか見覚えある……林原家の、昔さらわれた長女じゃない?」
「似てる……でも、死んだって聞いたけど」
「そうそう。犯罪組織に弄ばれて、性病うつされて死んだとか……」
噂が噂を呼び、ざわめきが膨らむ。
すぐに林原父と林原母が屋内から出てきて、撫子を見た瞬間、二人の顔に驚愕が浮かんだ。
だが――近づいてこない。
ただ、呆然と見ている。
「……お父さん、お母さん」
撫子は胸の奥の痛みを押し殺し、呼びかけた。
先に我に返ったのは母だった。ぎこちなく応じる。
「撫子……生きて帰ってきたのね。もう二度と会えないと思ってたわ」
言葉はそうでも、足は一歩も前へ出ない。わずか数歩の距離なのに、見えない断崖があるみたいだった。
父は複雑な目で撫子を見て、形式だけの声を落とす。
「帰ってきたなら……よかった。よかった……」
丁寧で、薄い。
撫子が求めていた「喜び」の色は、そこにはない。あるのは、視線の端にちらつく嫌悪と、隠しきれない居心地の悪さ。
かつては、天の寵児だった。両親に掌で包まれていた。
だが今の自分は、別の意味での「汚点」――林原家に恥をもたらす存在になっている。
そのとき、林原寧々と雨宮蓮二も屋内から出てきた。
林原寧々は豪奢なプリンセスドレスを身に纏い、養女とは思えない扱いを受けている。
「お父さん、お母さん、どうして玄関で立ち話してるの? お客様も多いし、わたしと雨宮お兄さんだけじゃ手が回らないよ」
言い終えてから、ようやく撫子に気づき、信じられないという顔をした。
「……お姉ちゃん?」
周囲のひそひそ声が、また膨らむ。
「やっぱり林原家の長女か。……さらわれてた間、何人の男に抱かれたんだろ」
「肌見てよ、近づかないほうがいい。感染る病気とかあるかも」
「宴会に来ただけなのに、汚い病気なんて貰いたくない」
「そんな娘が生きて帰ってくるなんて恥だよ。外で死んでたほうが――」
言葉が針みたいに刺さり、撫子の顔から血の気が引く。
最後の希望みたいに、撫子は雨宮蓮二を見た。幼なじみで、子どもの頃には「大きくなったら結婚しよう」と言い合った相手。
だが雨宮蓮二は、撫子の視線を避けた。
