第2章
林原撫子の心は、底まで沈みきっていた。
家族――そのはずなのに、目の前には確かな距離がある。立ち位置が離れているだけじゃない。心と心のあいだに、見えない壁がそびえていた。
誰もが警戒と防衛の顔つきで、雨宮蓮二に至っては林原寧々を背中にかばっている。
撫子だって馬鹿じゃない。今この家で、掌に載せられているのが誰かくらい、嫌でもわかる。
養子として迎えた娘。両親と婚約者の愛情を、まるごと受け取っている存在。
――それで、どうして。
当時、犯罪組織が狙っていたのは本来、林原寧々だった。
撫子は咄嗟に飛び出して連中にしがみつき、寧々へ叫んだ。早く戻って通報して、と。
あのとき寧々が警察を呼んでいれば。
もしかしたら、自分は連れ去られずに済んだかもしれない。
なのに寧々は――逃げた。
その代わりに、撫子は数え切れない痛みと辱めを背負わされ、地獄みたいな一年を生きた。
そして今、奪った側が、彼女の居場所も、家も、全部を持っている。
許せるはずがない。
そのとき、寧々が雨宮蓮二の背後からそっと出てくる。涙をたたえた瞳のまま、撫子の手をつかみ、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい、お姉ちゃん。全部、わたしが悪いの……。お姉ちゃんがわたしの代わりにさらわれて、一年間も暴行されて……そのせいで、いまは汚い病気まで……。ほんとに全部、わたしのせい。時間を戻せるなら、さらわれるのはわたしのほうがよかった……!」
罪悪感の顔をしている。
けれど言葉は、撫子に「病気がある」という、存在しない烙印をもう一度押しつけてくる。
偏見は、目に見えない山だ。
撫子の目が一瞬で冷えた。霜が張るみたいに。つかまれた手を、ためらいなく振りほどく。
「わたしが汚い病気だって言うなら、証拠は?」
寧々が甲高い悲鳴を上げ、よろめくように尻もちをついた。
撫子は思わず拳を握りしめる。
いまのは力なんて入れていない。入れたくても入れられない。そんな身体なのに――家族は、寧々のほうを信じた。
寧々の演技が巧いのか。
それとも、自分がただ邪魔なのか。
母が寧々を抱き起こし、痛ましげに声をかける。
「寧々、大丈夫?」
寧々は支えられたまま小さく首を振り、しゃくり上げる。
「お姉ちゃんを責めないで……。わたし、どうされても当然だから……」
雨宮蓮二は寧々をいたわる目で見つめた。
「寧々は優しすぎるんだ。だから付け込まれる。彼女の不幸を、どうして君が受け止めなきゃいけない?」
そう言い切ってから、撫子を見る視線には露骨な嫌悪が混じる。
「林原撫子。君の遭遇には同情する。でも寧々は無関係だ。身体だって弱いのに、帰ってきて早々手を上げるなんて」
撫子の胸は、もう傷だらけだった。
みんな、寧々の「かわいそう」しか見ない。
自分の苦しみは、どこにも映らない。
死にかけながら帰ってきたのに。
いま一番、守られるべきなのは――。
撫子は悲しみを噛み殺し、震える指で寧々を指さした。
「わたしは、あの子を助けたくてさらわれたの! あのとき通報してくれてたら、わたしは連れていかれてない! ちょっと泣けばみんなが庇う。じゃあ、わたしは? わたしは何なの?」
声が掠れて、泣きそうになる。
鞭で裂かれ、電撃で痛めつけられたときは泣かなかった。なのに今は、目の奥がひりつくほど痛い。
「過去の話をいまさら持ち出して、何になる!」
父がとうとう堪えきれず、立ち上がって怒鳴った。
「寧々だって怖かったんだ! お前にあんなことが起きるのを、私たちが望んだと思うのか? この一年、寧々は自責と罪悪感で苦しみ続けて、手首を切って自殺まで図ったんだぞ! お前は寧々を死なせたいのか!」
撫子の身体が小刻みに震える。
悲しみよりも先に、信じがたい感情が押し寄せた。
寧々は「反省しているふり」をすれば、全部なかったことになるのか。
爪が掌に食い込み、じわりと痛む。
「……それで?」
撫子は惨めに笑った。そこに滲むのは絶望。
「被害者のわたしには、責める権利すらないって言うの? わたしはあなたたちの実の娘でしょう。こんなに苦しんで戻ってきたのに、見せられるのが――わたしを落とした人と『家族団欒』してる姿なの?」
堤が切れたみたいに、言葉が溢れ出した。
その場が、重い沈黙に沈む。
母は表情をこわばらせ、ため息をついた。
「撫子……あなたの苦しみはわかる。でも、いつまでも過去に縛られても仕方ないでしょう。全部を寧々のせいにするのは違うわ。本当に憎むべきは、あの犯罪組織の人間たちじゃない」
さらに、諭すように続ける。
「それに、せっかく帰ってきたんだから家族で仲良くしなきゃ。毎日そんな話ばかりしていたら、笑い者になるだけよ」
撫子は、何も言えなかった。
身体の芯が冷えていく。周囲の軽蔑の顔。家族の目に宿る嫌悪。
その全部を見て、ふと思う。
――ずっと帰りたいと願っていた自分が、滑稽だ。
撫子はぎゅっと目を閉じた。
そのとき背後から、どこか愉快そうな声が飛んできた。
「客、たくさん来てるんじゃないのか? どうしてみんな玄関にいるんだ」
林原景也が訝しげに歩み寄り、撫子を見た瞬間、言葉が途切れた。
驚いている。だが喜びじゃない。
「……なんで戻ってきたんだ?」
その一言が、刃みたいに胸を貫いた。
景也お兄ちゃんは、昔いちばん仲が良かった。撫子の中に最後まで残っていた期待は、彼の反応だったのに。
痛みをこらえて説明する。
「犯罪組織のアジトが摘発されて……助け出されたの」
だが景也は何かを思い出したように顔色を変え、声を張り上げた。
「みんな下がれ! こいつ、感染症を持ってるかもしれない! 病院で全身検査だ。感染源がないって確認できるまで接触するな!」
撫子の目の奥、最後の灯りがぱきりと砕けた。
周囲がどっと後退し、撫子だけが真ん中に取り残される。四方八方、悪意。
「寧々は身体が弱い、俺の後ろに! 警備員! 林原撫子を病院へ連れていけ! 感染症には潜伏期間もある。最低でも一か月は隔離だ!」
屈強な男たちが駆け寄った。
だが「感染」を恐れて足が止まる。手を伸ばしかけては引っ込め、誰も掴みに来ない。
「わたしは感染症なんてない! それは噂よ!」
撫子は目を赤くして叫んだ。
閉じ込められていたはずなのに、どうしてこんな話が広がっている。
撫子の視線が、鋭く寧々へ突き刺さる。
「何をしてる! 早くやれ!」
景也が苛立たしげに命じる。
撫子の瞳には、もう絶望しか残っていなかった。
