第2章

リリアは目元を赤くして、声を詰まらせた。

「この三年、ずっと探してたの……どれだけ心配したか、あなた分からないよ……」

そう言いながら、ぽろぽろと涙を落とす。その健気な姿に、周囲の客たちまで胸を痛めたようだった。

「あなたのせいで、私は連れていかれたのよ」

梨紗は冷たく言い返す。

「リリア。あなたは私に謝らなきゃいけない」

リリアの身体がぴくりと強張り、涙がいっそう勢いを増した。細い肩が小刻みに震える。

「梨紗……あなたが私を憎むのは分かる。謝罪どころか、土下座だってする……!」

そう言って膝をつこうとした瞬間、横の康之が慌てて引き起こし、抱き寄せて庇った。

康之は眉を寄せる。

「梨紗、いい加減にしろ! リリアだって楽じゃなかったんだ。毎晩悪夢を見て、罪悪感でずっと苦しんできた。まだ彼女に何をさせたい?」

梨紗は、心底可笑しいものでも聞いたみたいに笑った。

「罪悪感? 私の家に住んで、私の婚約者を奪うのが罪悪感なの?」

梨紗の視線が、リリアと康之の薬指に落ちる。きらきらと眩しい、ペアのダイヤのリング。

康之はその視線に気づくと、咄嗟に手を背中へ隠した。

「こ、これは……梨紗、誤解するな」

ざわめきがさらに大きくなる。スマホで盗み撮りする者までいた。家族のグループチャットに、今この騒ぎを実況しているのだろう。

そこへ――リリアの母親。梨紗が二十年以上「お母さん」と呼んできた女、靜美が人波から出てきた。

「梨紗。無事に帰ってきてくれて、私たちも嬉しいわ」

複雑な目。痛みも、罪悪感も、ある。だがそれ以上に――警戒が色濃い。

三年前、小岩家は梨紗が黒社会に攫われたと聞いて、すぐに金を集め、海外へ向かう準備をした。

血の繋がりがなくても、二十年以上育てた。情がないはずがなかった。

――だが出発直前、リリアが耐えきれずに「真実」を告げた。

地元の大物を怒らせたのはリリアではない。梨紗が裏で連中と違法取引をしていたせいだ、と。取引に失敗し、攫われたのだ、と。

靜美は最初信じなかった。だが調べると、梨紗の口座から不審な送金がいくつも見つかった。信じざるを得なかった。

話し合いの末、小岩家は「自業自得」と結論づけた。世間に知られれば家名に傷がつく。胸が裂けても、この娘を切り捨てるしかない――そう選んだ。

それなのに三年後、梨紗は生きて戻ってきた。

靜美は言葉を続ける。

「それに、今のあなたの状態だと……身体に色々なウイルスを持っている可能性があるでしょう。家族全員が感染のリスクを負うわけには――」

「病気だって言うなら、証拠を出して」

梨紗が遮る。

リリアは涙を拭い、柔らかな声で言った。

「お姉ちゃん、ママはそういう意味じゃなくて……ただ、あんな場所から戻ってきたんだもの。心配なの。もし本当に何かあっても、早く治療できたほうが――」

梨紗は冷笑した。

「私が病気だと決めつける根拠は? 今すぐ病院で検査して、何もないって証明できる」

靜美は迷った。

リリアが唇を噛み、小さく言う。

「ママ……康之の従兄が医者だったよね。彼に診てもらえば、病気かどうか分かるはず……」

康之は即座に頷く。

「そうだ、圭也なら分かる!」

人の後ろへ向かって声を張った。

「圭也!」

人垣が自然と割れる。

屋敷の中から男が歩いてきた。

広い肩、締まった腰。鍛えられた体格が、圧迫感を生む。シンプルな白シャツに、袖は肘まで無造作に捲られ、逞しい前腕が覗く。

彫りの深い、冷たい顔立ち。眉間に宿るのは、見下ろすような気配。立っているだけで空気が変わる。

梨紗は一瞬、目を奪われた。

覚えている。康之の従兄――竹原圭也。

竹原家は代々の実業家。その中でも圭也は別格で、十歳の時点で次期当主に指名されていたという。

なのに十六歳で医学の道を選び、二十歳で海外の名門医大を博士課程で修了。帰国後は自分の病院を立ち上げ、業界で名を馳せている。

かつて梨紗が康之と結婚するはずだったころにも顔を合わせた。気難しく、執念深い男だという噂だけが印象に残っている。たった一言で彼を怒らせた人間が、A市から跡形もなく消えた――そんな話まで出回っていた。

「誰を敵に回してもいい。竹原圭也だけはやめろ」

それが、界隈の合言葉だった。

圭也は近づくなり、梨紗の姿で視線を止め、ほんの僅かに眉をひそめた。

「従兄さん、こいつを診てくれ」

康之が言う。

リリアも続けた。

「圭也、お願い」

だが圭也は二人に目もくれず、冷淡に返す。

「俺はお前の家庭医か? どんな義務があって診る」

康之が気まずそうに頭を下げ、低姿勢になる。

「従兄さん、俺が焦って言い方を間違えた。頼む。ここに他にできる人間がいないんだ……お願いだ」

圭也は鼻で笑い、それから梨紗に淡々と告げた。

「手を出せ」

梨紗は動かなかった。

リリアがやりたいのは、彼女の潔白を証明することじゃない。皆の前で恥をかかせ、本当に病気だと『確定』させることだ。そうして追い出すための口実を作る。

リリアはまた、あの口調に戻る。

「お姉ちゃん……圭也に診てもらおう? 一番専門的だし。病気じゃないなら、みんな安心するよ。あなたももう説明しなくて済むし……」

「やっぱり後ろめたいのかしら」誰かが小声で言った。

「後ろめたくないなら、診せるでしょ」

梨紗はその声を聞いて、ようやく手を差し出した。

圭也が彼女の手首を取る。力は驚くほど柔らかい。壊れ物に触れるみたいに。

関節と皮膚の状態を診る。縦横に走る傷痕が目の前にあっても、彼は見えていないかのように表情を変えない。

「口を開けろ」

梨紗は従った。

口腔を見て、次に耳の後ろへ指を伸ばし、軽く触れて押さえる。

庭が異様に静まり返る。全員が息を呑んで、その手元を見つめていた。

数分後、圭也は手を離し、相変わらず淡々と言った。

「病気じゃない」

たった四文字。軽い。けれど静かな湖面に石を投げ込んだみたいに、波紋が広がる。

「そんなはずない!」

真っ先に康之が噛みつく。

「兄貴、ちゃんと診たのか?」

「医者はお前か、俺か」

圭也が一瞥する。冷たくも熱くもない口調で。

康之は言葉を詰まらせた。

リリアの顔色が揺れ、すぐに笑みを作る。

「圭也兄さんが丁寧なのはもちろん分かるけど……でも、お姉ちゃんはあんな場所から戻ってきたの。今は平気でも、ウイルスを保菌してるかもしれないし……病気って潜伏期間があるでしょう?」

圭也は彼女を見る。淡々としているのに、刃みたいな視線だった。

「潜伏期間でも症状は出る。彼女には出てない」

リリアの笑みが、ぴたりと固まった。

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