第3章
静美はまだ不安が拭えないのか、探るように言った。
「圭也……念のため、もう一度採血して調べたほうがいいんじゃない? だって、これは小さなことじゃないし……もし――」
圭也は答えず、ただ梨紗へ視線を向けた。
梨紗は鼻で笑い、もう片方の袖をまくって腕を差し出す。
「血を抜くんでしょ。抜けば?」
そのあまりに堂々とした態度に、静美のほうがかえって気まずそうに口元を引きつらせた。
圭也はポケットから携帯用の採血器具を取り出し、手際よく梨紗の指先にチクリと刺して血を採る。
「結果は明日だ」
言い終えると器具をしまい、踵を返してそのまま行こうとする。
康之が慌てて腕を掴んだ。
「兄貴、待ってくれよ。結果が出るまで――」
圭也はその手を振り払う。声は氷みたいに冷たかった。
「結果はもう言った。信じないなら検査票を待て。手術がある。お前らの茶番に付き合う暇はない」
そう言い捨て、振り返りもせず去っていく。
残された庭に、気まずい沈黙だけが落ちた。誰もが顔を見合わせ、言葉を失っている。
梨紗は、夜の闇に溶けていく背中を見つめた。
胸の奥がざらつく。どう形容していいのか、自分でも分からない。
圭也の印象は正直よくない。けれど今夜、彼だけが――一度も「異物を見る目」を向けなかった。
梨紗はゆっくりと視線を戻し、そこにいる面々を冷えた声で見渡した。
「圭也が、私に問題ないって言った。……じゃあ、私はここに住める?」
数人が目をそらす。しばらくして、静美が重たげに口を開いた。困ったような、言い訳めいた声で。
「梨紗……ママだって、住ませたくないわけじゃないの。ただ……ほら、家の部屋はもういっぱいで。あなたの部屋は……リリアのウォークインクローゼットに改装しちゃったのよ」
「……それで?」
梨紗は静美をまっすぐ見据えた。
静美は裏庭の隅を指さす。使用人部屋のあるほうだ。
「まずは少し我慢して、使用人たちと一緒に……明日、場所を片づけたら部屋を用意して、そこに――」
使用人たちは顔色を失っていた。梨紗が本当に住み込めば、エイズがうつると信じ込んでいるのだろう。怯えながら、露骨に距離を取る。
それでも相手は主人だ。逆らえるはずもなく、怒りも嫌悪も呑み込んで、ただ刺々しい視線だけを梨紗に向けた。
梨紗は失望したように首を振った。
死神と殴り合い、削られ続けていたあの時間に――この家の連中は、助けようとすらしなかった。むしろ、少しずつ自分の痕跡を消していった。
命からがら帰ってきたというのに、まともな部屋ひとつ、与える気がない。
「……私が、使用人部屋には住まないって言ったら?」
梨紗は意地を張るみたいに顎を上げた。
「よく言えるな」
二階から降りてきた亀之助が眉間に皺を刻む。二十年以上、「父さん」と呼んできた男だった。
昔は肩車して笑ってくれた。なのに今、その目にあるのは露骨な嫌悪だけ。
「住まわせてやるだけでも仁義は尽くしてる。今のお前の姿……小岩の恥だ!」
「たとえ血がつながってなくても、小岩には私の分だってある。あのとき私がいなかったら、会社は――」
言いかけて、梨紗は喉の奥で言葉を潰した。
亀之助が眉を上げる。
「お前がいなければ、会社がどうした?」
梨紗は顔を背けた。
「……なんでもない。とにかく、使用人と同室なんて無理。私は元の部屋に戻る」
「梨紗、言ったでしょ。あなたの部屋はもう衣帽間なの。いまは臨時で使用人たちと一緒にいて、空きができたら――」
静美の声には、はっきり苛立ちが滲んでいた。
梨紗は冷たく笑う。
「空きって、いつ? 明日? 明後日? それとも、私が死ぬ日まで引き延ばすつもり?」
「死ぬなら外で死ね」
健治が鼻と口を押さえ、吐き捨てる。
「性病だのエイズだの持ってるくせに。お前が踏んだ床だって汚い」
「ママ……梨紗は、ちょっと可哀想だよ」
リリアが肩をすくめ、泣きそうな声で言った。指で目尻をぬぐい、健気さを演じるように。
「あんな地獄から逃げてきたばかりなんだもん。きっと、みんなに心配してほしかっただけで……でも……どうして今日なの。私の誕生日に帰ってくるなんて……まだ私のこと恨んでるのかな……」
その一言で、静美たちの表情はますます硬くなる。リリアを傷つけられた、という空気が庭を満たした。
「恨む資格なんてない」
健治が言い切る。
「二十年以上、お前が奪ってた人生だ。リリアが苦しんだ分、お前が代わりに地獄を見るのは当然だろ。お前が死んで償うって言っても、足りねえくらいだ」
「そうよ、リリア。あなたは優しすぎるの」
静美が溜息を落とす。
「誕生日を台無しにされても恨まないなんて……むしろ梨紗があなたを恨むだなんて、あり得ないわ」
梨紗は、怒りで笑ってしまった。笑っているのに、目の奥は熱く滲む。涙が落ちる寸前で、ぐるぐると溜まっていく。
取り違えは、自分の意思じゃない。リリアの人生を奪うために生まれたわけでもない。
リリアが戻ってきたとき、梨紗だって罪悪感はあった。できる限り埋め合わせようとした。
――それでも、リリアは自分の人生を壊すために動いた。
ようやく分かった。
この家は最初から、梨紗を「奪った側」だと決めつけている。だから、どれだけ壊されても「自業自得」で終わる。
なら、もう体裁なんて守る必要はない。
「使用人部屋なんて、住みたい人が住めばいい。私は、自分の部屋に戻る」
言い捨てた瞬間、梨紗は隙を突いて二階へ駆け上がった。
ばたばた、と足音が廊下へ吸い込まれていく。
屋敷の間取りは変わっていない。目をつぶっても歩ける。梨紗は迷いなく進み、かつての寝室の扉を押し開けた。
中は別世界だった。
宝石やバッグがずらりと並び、大きなクローゼットには高級ブランドの服がぎっしり。オートクチュールまで混じっている。甘ったるい香水の匂いが鼻についた。
改装されていても、ベッドだけは残っていたのが皮肉だった。
遅れて我に返った静美たちが、甲高い声を上げながら階段を駆け上がってくる。
「やめなさい! 梨紗!」
廊下の先で足音が止まり、部屋の入口に人影が並ぶ。
梨紗が、陰湿な笑みを浮かべていたからだ。
片手にはリリアの限定バッグ。もう片方には、値札がそのまま付いていそうな礼服をぶら下げている。
「きゃあああ! それ、来週のチャリティーで着る予定だったのに! バッグも! 一度も使ってないの!」
リリアがついに上品な仮面を割り、悲鳴を上げた。
「梨紗! 何してるの! それはリリアのものよ!」
静美が叱りつける。
「何言ってんだ、さっさと投げ捨てろ!」
健治が袖をまくって踏み込もうとした、そのとき。
梨紗が薄く笑った。
「私、エイズ持ちなんでしょ。触っただけでうつるんじゃない? 気にしないなら、いつでもどうぞ。……投げ捨ててみなよ」
ぴたり。
健治の動きが止まった。足が床に縫い付けられたみたいに、前へ出られない。
それを見て、梨紗の笑みがさらに深くなる。
彼女はリリアの服を次々と身体に当て、肩に限定バッグを掛けてみせた。まるで見せびらかすように、ゆっくりと、わざとらしく。
リリアは悔しさに耐えきれず、わんわん泣き出した。
