第1章

九条美琴は深い山奥へ売られて三年。虐げられ、命も半分削られたような有り様で、ようやく救い出された。

地域の警察官が、彼女を自宅の門前まで送り届ける。

車を降りた美琴は、目の前の大きな屋敷を見上げた。確かに自分の家のはずなのに、どこかよそよそしい。――まるで、知らない家みたいだった。

無理もない。

今日の九条家は見違えるほど飾り立てられ、めでたい空気に包まれている。門から庭まで、宴の支度で浮き立っていた。

「ここ、九条家……ですよね?」

運転していた警察官が思わず確認する。

同乗していた同僚が、きっぱり頷いた。

「九条家だよ。何度も電話したんだが、『娘さんが見つかった』って言うたびに詐欺扱いで、ガチャ切りされた」

もう一人の女性警察官が呆れたように吐き捨てる。

「長女が行方不明だったのに、よくもまあお祝いなんてできるわね」

炎天下、美琴は門前に立ち、警察官たちの会話を聞きながら、胸の奥がぐちゃぐちゃに絡まっていくのを感じていた。

けれど、深く考えないようにした。

今はただ――帰ってきた。やっと家に戻れた。その喜びだけで胸がいっぱいだった。

「九条美琴さん。帰りましょう」

女性警察官が柔らかく促す。

「……うん」

美琴はかすかに唇を引き、頷いて、庭へと足を踏み出した。

兄の結婚か、何かのお祝い事なのだろう。辺り一面、めでたい雰囲気に包まれている。

しかも、自分が帰ってきた日と重なるなんて。まるで二重の慶事だ。

両親は、きっと泣いて喜んでくれる。

そう思った途端、鼓動が早まり、目の奥がじわりと熱くなった。

屋敷の前には高級車がずらりと並び、芝生は温かくロマンチックに飾りつけられている。

近づくにつれ、人型の立体パネルの文字がはっきり見えた。

――「菅野優斗と九条瑞希 婚約披露宴」

美琴の視界が、すっと暗くなる。

胸いっぱいだった歓喜が、一瞬で凍りついた。膝が抜けそうになり、立っているのがやっとだった。

菅野優斗。J市の名家・菅野家の御曹司。幼なじみで、恋人だった男。

その優斗が――妹の九条瑞希と、婚約……?

守ると言った。大事にすると言った。

一生、手放さないと言った男が、別の女と?

しかも相手は――自分の妹?

美琴はその場に縫いつけられたように動けず、唇を噛み締めた。信じられない。

「九条美琴さん、早く入りましょう。ご家族、きっと喜んで泣きますよ」

女性警察官は、彼女が途中で立ち止まったのを“里心”だと思い、根気よく励ました。

だが美琴は小さく震え、視線はパネルに釘づけのまま。足が地面に根を張ったように動かない。

屋敷の中は、歌や笑い声で賑わっていた。

美男美女のカップルが親族や友人に囲まれ、キスを煽られている――その瞬間。

「九条美琴が戻ってきた!」

誰かの叫びで、空気が凍りついた。

ざわめきが消え、全員が一斉に門のほうを振り返る。次いで、目を見開いた。

「……本当に九条美琴? あんな姿に……」

「避難民みたい。いや、狂った婆さんみたいだ」

「山に売られて、爺さんの子を産んだって話じゃなかった? どうして戻ってこれたの?」

「警察が連れてきたんだってさ――」

客たちは目を光らせ、ひそひそと囁き合う。

抱き合っていた婚約者たちも、庭に立つみすぼらしい女を見た途端、顔色が固まった。

「……お姉ちゃん……」

九条家の養女・九条瑞希が、呆然と呟く。目を丸くし、信じられないという顔だ。

九条美琴が――生きて戻ってきた?

門の外で、美琴は硬直したまま立っていた。

何十もの視線に値踏みされても、反応できない。

かつて彼女は、J市社交界随一の令嬢。

どんな華やかな場でも、美琴が現れれば空気が変わった。明るく、眩しく、自信に満ち、誰にも主役を譲らない。

「九条家の掌中の珠。坊ちゃんたちの高嶺の花」

そう囁かれた日々。

それが三年前のある夜、唐突に終わった。

瑞希と二人で宴に出かけ、深夜に帰る途中、車がパンクした。

運転手がタイヤを替え、姉妹は懐中電灯で照らしていた。

そこへ、ワゴン車が猛スピードで突っ込んできて、瑞希をさらおうとした。

美琴は必死に阻み、運転手も加勢して、瑞希を救い出した。

だが、犯人は隙を突き、麻袋を美琴の頭から被せ、彼女を車へ放り込むと、そのまま闇へ消えた。

身代金目的の誘拐だと思った。金を払えば帰れると。

――甘かった。

相手は、広域で暗躍する組織的な人身売買グループ。彼女は何度も転売され、最後には山奥の村へ売られた。

三年間。

鉄鎖で豚小屋に繋がれ、豚と同じ餌を食べ、同じ場所で眠った。

人間扱いなどされない。殴打、罵倒、飢え、寒さ。

何度も暴行されかけ、そのたびに「知的障害のある夫」と呼ばれる男に助けられた――そんな皮肉な日々。

一生、あの暗闇から出られないと思っていた。

だが、警察当局の人身売買・誘拐の一斉摘発で、奇跡的に救出された。

帰宅の場面は、何度も想像した。

けれど、こんな形だなんて――夢にも思わなかった。

迎えにあったのは、恋人と妹の婚約披露宴。

凍りついた空気の中、客の一人がぎこちなく声をかけた。

「美琴……帰ってきたのね?」

美琴は瞬きを一つ。視線をパネルから外し、声をかけた年配の女性へ微笑んだ。

「……うん。帰ってきた……」

別の客が心配そうに言う。

「苦労したでしょう。顔色も悪いし、痩せて――」

言い終える前に、隣の家族が肘で突き、小声で叱る。

「余計なこと言うな。病気だって噂だぞ。うつるかもしれない」

「話すくらい――」

その気まずい会話を遮るように、九条家の人間が慌てて飛び出してきた。

九条夫人・広末蓉子は、階段下の娘を見て目を見開き、身体が固まった。

乱雑に切られた髪。みすぼらしい服。男物と分かる靴。露出した腕と足首には、青黒い痣と縄の痕。

頭から足先まで見つめ、震える声で呟く。

「……本当に、美琴……」

母の姿に、美琴の胸に再び火が灯る。

一歩、前へ。

「お母さん……帰ってきたよ」

父と兄も出てくるのが見え、さらに声が弾んだ。

「お父さん……兄貴……!」

九条家当主・九条直哉は、どこか妙な顔で頷いた。

「……ああ。帰ってきたなら、それで……」

言いながら、妻と視線を交わす。

二人の脳裏に蘇ったのは、去年警察で見た資料だった。

――長女は山へ売られ、複数の老人の嫁にされた。子を産んだ。生まれた子は四肢に欠損があり、さらにエイズを患っている。

あの日、広末蓉子は一か月眠れず、十数キロ痩せ、涙が枯れるほど泣いた。

そして最後には、家の体面と家族の健康を守るため、「捜索を打ち切る」と警察に告げたのだ。

それなのに――戻ってきてしまった。

隊長格の警察官が、九条夫婦の冷淡さに眉をひそめ、厳しい声を投げた。

「九条直哉さん。娘さんが帰ってきたのに、その反応は何です?」

普通なら、家族は門前で待ち、警察車両を見た瞬間に駆け寄って抱きしめ、泣き崩れる。

それが当たり前だ。

だがこの家は、まるで他人を見るような目をしている。

名指しされ、九条直哉はようやく我に返り、愛想笑いで取り繕った。

「ご苦労さまです、警察の方。ただ――こ、これは……去年は、救出は難しいと……」

「どういう意味です? 救出できたのに、嬉しくないとでも?」

警察官が鋭く返す。

「いえいえ、そんなことは!」

九条直哉は慌てて笑い、娘へ数歩近づく。

「美琴、帰ってきてくれてよかった。父さんも母さんも、お前が恋しくて白髪が――」

美琴は父を見上げた。黒々とした髪に、白いものはほとんどない。

それでも、笑ってしまう。笑うしかない。

「……私も、会いたかった……」

「美琴……」

広末蓉子が一歩近づき、口を開いた、その瞬間。

鼻を突く、むっとする臭い。

広末蓉子は反射的に鼻を押さえた。

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