第5章
「……なに?」
九条瑞希は胸の奥がひゅっと縮んだ。首もとに揺れるピジョンブラッドルビーのネックレスを押さえ、広末蓉子を見上げる。次の瞬間、涙が一気にせり上がった。
「お姉ちゃん、ごめんなさい。あげたくないわけじゃなくて……これは優斗お兄ちゃんが私にくれたの。愛の証なの……」
瑞希の声はか細く、ぽろぽろと涙が落ちる。
広末蓉子は眉をひそめた。
「美琴、瑞希のものを取り上げるのはやめなさい」
「じゃあ、あの子が私のものを奪うのはいいの?」
九条美琴が、羽でも払うみたいに投げた一言。
広末蓉子も九条瑞希も、言葉を失った。
菅野優斗は、美琴の幼なじみで恋人だった男だ。
それが今では、九条瑞希の婚約者。
姉の恋人を横取りするのは、人の大事なものを奪うのと同じじゃない?
美琴はそれだけ言い捨てると、二人の表情を見る気もなく、宝飾品を手早くまとめた。立ち上がり、そのまま1階の家政婦部屋へ向かう。
好きで我慢しているわけじゃない。
ただ、この家の人間と、これ以上近づきたくなかった。だからわざわざ上の部屋を取り合う気にもならない。
どうせ、長く住むつもりもないのだから。
翌朝。
九条家の人間は起きてきて、美琴の姿がないと知るなり、誰もがほっと息をついた。
「朝早くから……お姉ちゃん、どこ行ったんだろ」
九条瑞希は好奇心を滲ませつつ、わざとらしく心配する。
「お金も持ってないのに、外に出たらどうするの……」
九条柏人が肩をすくめた。
「友達のところでも行ったんじゃないか」
「でも、あの病気って噂……誰が会いたがるの」
瑞希が小さくぼやく。
「はぁ……」
広末蓉子は深いため息をつき、憔悴した顔で額に手を当てた。
「昨夜は一睡もできなかったわ。美琴が戻ってきたのに、あんな姿で……胸がえぐられるみたい」
瑞希は粥をよそって差し出し、優しい声を作る。
「お母さん、そんなふうに思い詰めないで。家には私とお兄ちゃんがいるんだから」
九条柏人は眉間に皺を寄せたまま、低く言った。
「美琴は……精神的におかしくなってる。精神科に連れていかないと」
「お姉ちゃん、絶対認めないよ。今だって嘘ばっかりで、何も認めないし……」
瑞希が唇を尖らせる。
広末蓉子はまたため息を落とし、それから黙り込んでいる夫を見た。
「直哉、あなたは? 何か言いなさい。どうするの、これ」
九条直哉は奥歯を噛みしめ、吐き捨てるように言う。
「どうもこうもない。家に置いとけば目障りだし、嫁に出そうにも引き取り手なんてない。……少し時間を置いて、世間が騒がなくなったら、外で一人暮らしさせるしかないだろ」
「外に?」
広末蓉子は数秒考え、ゆっくり頷いた。
「それしかないわね。数日中に部屋を探させる。もっと安い、古いアパートでいい」
瑞希は粥をすすりながら、両親の会話を聞く。
胸に乗っていた石が、ようやく少しずつ沈んでいった。
九条美琴さえ家から追い出せば、真実を暴かれることはない。
――ただ。
あの女が生きている限り、いつだって自分の立場を脅かす。
一度で終わる方法が必要だ。
J市にいる九条家のお嬢様は、ただ一人。唯一無二でなければならない。
それは――九条瑞希、自分だ。
九条美琴は朝一番で家を出ると、タクシーを拾い、市内最大級の中古ブランド店へ直行した。
迷いはない。
持ち出した十数セットの宝飾品を、まとめて売り払う。
本来なら1,000万超の品が、買い取りは550万。
だが、それで十分だった。
金に困っているわけじゃない。
ただ、あれを手元に置いておくのが不快だった。九条瑞希に得をさせるのも癪に障る。
店主に50万は現金で受け取り、残り500万は現金小切手にしてもらう。いつでも引き出せる形だ。
店を出た美琴は、その足でショッピングモールへ入り、頭からつま先まで一式買い揃えた。
そして、今着ている――九条瑞希の服を、そのままゴミ箱へ放り投げる。
現金はリュックに詰め、背中にしっかり背負った。
美容室で髪を切り、スマホも新調する。
それからタクシーで病院へ向かった。
病院へ向かう車内、美琴はスマホで自分の株口座にログインし、口元に小さな笑みを浮かべた。
元手2,000万。三年で五倍。
口座には今、ちょうど「1億」が眠っている。
胸の奥がすっと軽くなる。
窓の外は、容赦ないほど晴れた日差し。暗闇と絶望に塗りつぶされた三年の心に、ようやく一筋の光が差し込んだ気がした。ほんの少し、温かい。
気持ちが落ち着いたところで、美琴は株式フォーラムにアクセスした。
最新の投稿は三年前。
自分が書いた株式評論が「精華」扱いになっている。
コメント欄の最初は相場の議論だった。
だが、下へスクロールするほど、内容が変わっていく。
――木下夫人、最近見ないけど?
――病気なの?
――誰か状況知ってる?
そして、いちばん新しい書き込みは、なんと昨日。
その瞬間、美琴の視界が滲んだ。
知らない誰かが、まだ自分を覚えていてくれた。三年経っても、気にかけてくれていた。
それなのに、いちばん近いはずの家族は――自分が死んでくれていたほうが都合がいい。
美琴は深呼吸を繰り返し、震える指で短く投稿した。
「生まれ変わって帰ってきた」
すぐに返信が雪崩れ込む。
「嘘だろ! 目を疑った! 木下夫人、戻ってきたの!?」
「本人ですか? 事故で亡くなったと思ってた。消え方が急すぎたんだよ!」
「木下夫人! 株の神! 昔、一緒にIPO買ったの覚えてる? あれ、めちゃくちゃ儲かったよな!」
画面越しの熱に、胸がじんとする。
空が、さらに明るく見えた。
J市でいちばん評判の病院に着くと、美琴は複数の科を回るために受付を済ませ、徹底的な検査を入れた。もちろん、HIV検査も改めて。
久しぶりの病院は、どこか勝手が違う。
検査票の束を握りしめ、あちこち走り回る。
エレベーターに乗り込んだ、そのとき。
正面に、見覚えのある顔があった。
陸川雅樹。白衣姿で、相変わらず冷えた気配をまとっている。
美琴を見た瞬間、彼の目に一瞬だけ驚きが走ったが、表情はすぐに無に戻った。
美琴はちらりと見ただけで、挨拶する気にもならなかった。第一印象が最悪だ。
病院は混み合っていて、後ろから人が押し込んでくる。
どん、と肩がぶつかり、美琴はよろけて陸川の胸元に押し込まれた。
美琴は眉をきつく寄せ、顔を上げる。
白衣の胸に下がる名札が目に入った。
陸川雅樹――医長。
(若いのに医長? 命、軽く見てるんじゃないの)
「すみません」
後ろの人が体勢を整えたのを確認し、美琴はすぐに身を離して、淡々と頭を下げた。
陸川は視線を落とし、彼女の手元の検査票を一瞥する。唇の端が嘲るように歪んだ。
「九条家の人間は、揃いも揃って疑い深いな」
昨日、HIVじゃないと言った。
それなのに今日も検査。医療資源の無駄だ、と言いたいのだろう。
美琴は眉を上げ、冷たく返す。
「あなたが藪医者じゃないって、誰が保証してくれるの? 誤診で死んだら、責任取れる?」
昨日は触っただけで結論を出した。
結果が自分に有利でも、九条家も菅野優斗も疑った。つまり、彼の判断を信用していないということだ。
なら、自分が疑って何が悪い。今日、きちんと検査するのが一番確実だ。
陸川の顔色が沈む。
「……俺が、藪医者だと?」
冗談じゃない。
陸川雅樹は医大に入った日から天才と持て囃され、業績も数え切れない。彼の手で救われた患者は山ほどいる。クレームなど、ただの一件もない。
それを――目の前の女が、面と向かって藪医者呼ばわり?
美琴は彼の不機嫌を見て、内心で鼻を鳴らした。こんな気分屋の医者に当たったら、病気で死ぬ前に心臓が止まりそうだ。
「藪かどうかは知らない。でも、あなたの甥があなたの腕を信用してないのは事実でしょ」
軽い口調で、痛いところだけを正確に突く。
さらに名札へ視線を滑らせ、言い添えた。
「その肩書きがどうやって手に入ったかくらい、分かってる。金持ちの世界の“遊び”ってやつ。私も知ってるの」
かつて自分も、J市社交界で名の通った令嬢だった。権力の駆け引きなど、幼い頃から嫌というほど見てきた。
陸川は、こんな自信満々な女に出会ったのは初めてだと言わんばかりに、冷笑だけを落とした。
「だから家族にも信用されないんだ。そんな性格じゃ、身内でも耐えられない」
