第1章 結婚記念日
夜の帳が降り、星港市きっての高級住宅街は、深い静けさに包まれていた。
古川邸――。
クリスタルのシャンデリアは光量を落とされ、食卓には揺れるキャンドルの火。淡い光が、須藤寧音の整った横顔を照らす。いつもより少しだけ青白い。
今日は、古川寒弥と結婚して三周年の記念日だった。
声優界でその名を知らぬ者はいない「梵音」。
無垢な少女から威厳ある女王まで、どんな役でも自在に変幻する声は、数え切れないほどのファンに天の音として崇められている。
けれど今夜の彼女は、ただ夫の帰りを待つ、ごく普通の妻にすぎない。
フィレ肉のステーキは自分の手で焼いた。火入れはミディアム。寒弥がいちばん好きな加減だ。
秘蔵のロマネ・コンティも、すでにデキャンタで空気に触れさせてある。濃厚な果実香が静かに立ちのぼった。
テーブルの片隅、小さなベルベットのジュエリーケース。
三か月かけて人づてに注文したカフスが一組、そこに眠っている。砕いたようなダイヤで、ふたりの姓のイニシャルが刻まれていた――「H&S」。
すべてを整えた。胸いっぱいの期待と一緒に。
そのとき、玄関から暗証ロックが外れる電子音が聞こえた。
「ピッ」
須藤寧音の鼓動が、一拍ぶん落ちる。
立ち上がり、頬にやわらかな笑みを浮かべた。夫を迎える準備――そのはずだった。
だが次に響いたのは、古川寒弥の低い声ではない。
甘えた調子で、誇らしげに弾む女の声だった。
「寒弥さん、やっぱり私のことが一番大事なんだね!」
須藤寧音の笑みが、そこで凍りつく。
玄関に現れた古川寒弥は、背が高く、端正な体躯に仕立てのいいスーツ。容姿も目を奪うほど整っているのに、深い眼差しは――いつも通り、彼女へ向ける氷だった。
その腕に、白いワンピースの小柄な女が親しげに絡みついている。
西川星奈。
芸能界で頭角を現し始めた新星。清純派として売り出され、世間の好感を集めている女。
「寧音さんも、家にいたんだ?」
西川星奈は一瞬だけ、隠し切れない得意げな光を目に浮かべ、すぐに無垢な笑顔へ塗り替える。
寒弥の腕を離すと、蝶のように軽やかに駆け寄ってきて、書類の束を宝物みたいに掲げた。
「見て。寒弥さんが用意してくれたサプライズ! 私のために音楽スタジオを投資してくれたの。名前も決めてくれてね、『星の音』だって!」
「私の声は天の音で、埋もれさせるのはもったいないって。世界中に聴かせるべきだって言ってくれたの」
須藤寧音の視線は西川星奈を越え、古川寒弥の無表情な顔に落ちた。
彼は、テーブルに並ぶ料理にも、揺れる灯にも、醒ましたワインにも――そして妻である彼女にも、一度たりとも目を向けない。
この家の飾りの一つでしかない、とでも言うように。
見えない手が心臓を鷲掴みにして、ぎゅうっと締め上げた。
息が、うまく吸えない。
結婚して三年。
千日を超える孤独な夜を、冷たい背中と共に過ごしてきた。慣れたと思っていた。
それでも――こんな日にまで、こんな形で、簡単に砕かれるとは思わなかった。
喉の奥が酸っぱくなる。
須藤寧音は両手を脇に垂らしたまま、指先を少しずつ握り込んだ。爪が掌に食い込み、痛みだけが現実だった。
せめて一言。
今日が何の日か、覚えているのかと――問いたかった。
「わたし……」
その一文字が出た瞬間、男の声が刺さる。
「しゃべるな」
古川寒弥は彼女を見ないまま、苛立ったようにネクタイを引き、細い目に露骨な嫌悪を滲ませた。
「うるさい」
須藤寧音の頭の中が、真っ白になった。
長年愛してきた男を見上げるのに、血の気が引いていく。唇が勝手に震えた。
「寒弥くん……」
西川星奈がわざとらしく心配そうに袖を引く。
「そんな言い方しないで。寧音さん、きっと傷つくよ。寧音さんは梵音なんだし、声がすごく綺麗で――」
「綺麗?」
古川寒弥が鼻で笑い、ようやく須藤寧音へ視線を投げる。その冷たさは、窓の外の冬夜よりも鋭い。
「俺にとっては、価値がない」
彼はジャケットを脱ぎ、椅子の背に乱雑に掛けると、西川星奈へ言った。
「行くぞ。腹減ったって言ってたろ。レストランに連れて行く」
「うん!」
西川星奈は甘く笑い、また当然みたいに彼の腕へ縋りつく。
出ていく間際、振り返って須藤寧音に向けたのは、勝者の微笑みだった。
広いダイニングに、須藤寧音だけが残された。
呆然と立ち尽くす。
いつの間にかキャンドルは燃え尽き、蝋が涙みたいに皿へ溜まっていた。まるで、この三年、彼女の中で乾かなかったものの形。
丹精込めた食卓は、最初から最後まで――彼に一度も見られなかった。
……
深夜。
須藤寧音は冷えきったベッドの上で、膝を抱えるように身を丸めていた。眠気など欠片もない。
階下で車のエンジンが切れる音。
続けて、玄関の扉が乱暴に押し開けられる気配。
帰ってきた。
重い足音が近づき、寝室の前で止まる。
ドアが回され、開いた瞬間、濃い酒の匂いが部屋を塗りつぶした。
須藤寧音の心臓が喉へせり上がる。身体が条件反射で硬くなる。
古川寒弥はふらつきながらベッド脇へ来ると、巨体の影で彼女を覆った。
次の瞬間、身を屈めて、乱暴に彼女の寝間着を引き裂く。
「やめ……っ」
須藤寧音が怯えた声で拒むより早く、両手は簡単に押さえ込まれ、体重で押し潰される。
酒気を含んだ口づけが、逃げ道を奪う略奪みたいに降り注いだ。
愛じゃない。
これは罰だ。
三年間、ずっとそうだった。
冷たい涙が目尻から滑り、枕を濡らす。
「須藤寧音……」
耳元で、彼は何度も名前を呼ぶ。擦れた声に、骨の髄まで染みる憎しみが混じる。
「自分勝手な女だ」
「どうして……」
どうして。
須藤寧音だって知りたかった。
幼い頃、あの火事がすべてを焼き尽くした。家だけじゃない。あの夜の記憶そのものが、灰になった。
何も、思い出せない。
頭の中は空白で、残っているのは底知れない恐怖と、胸を裂く痛みだけ。
答えられない。答えようがない。
ただ、彼の「罰」を受け入れるしかなかった。
身体を貫かれる瞬間、痛みに反射的に背が弓なりになる。
闇の中、彼の低い唸りが繰り返し耳を焼き、心にまで焼き付いた。
「答えろ……須藤寧音。なんで答えない」
彼は、彼女の忘却を理解しない。
罪悪感だと決めつけ、黙ることを認めた証だと思い込む。
だから罰は、さらに激しくなる。
須藤寧音は、自分が嵐の海に放り出された小舟みたいだと思った。
翻弄され、いつ呑み込まれてもおかしくない。底のない暗い海へ沈んでいく感覚。
どれほど経ったのか。
男はようやく怒りと欲を吐き尽くし、彼女の上で重く眠りに落ちた。
身体の裂けるような痛みでさえ、胸の痛みの万分の一にも届かない。
須藤寧音は空洞の目で天井を見つめたまま、動けなかった。
夜が薄まり、窓の外がわずかに白みはじめるまで。
