第2章 彼女は世界中に見捨てられた
朝の光がブラインドの隙間から差し込み、カーペットの上にまだらな光の筋を落としていた。
須藤寧音はゆっくりと上体を起こす。全身が、トラックに轢かれたみたいに重い。骨の一本一本が悲鳴を上げ、鈍い痛みが皮膚の内側から広がっていく。
隣のスペースは、すでに冷え切っていた。昨夜のあの暴風のような蹂躙が――ただの悪夢だったと言い聞かせたくなるほどに。
寧音は裸足のままベッドを下り、浴室へ向かった。
鏡の中の女は顔色が紙のように白い。鎖骨から首筋にかけて、曖昧で、それでいてやけに目立つ痕が散っている。あれは夢じゃない、と容赦なく突きつけてくる印。
須藤寧音は視線を落とし、黙ってシャワーをひねった。ぬるい湯を浴びながら、洗い流せるはずのない屈辱まで落ちてくれ、と祈るみたいに。
身支度を終えると、ゆったりした部屋着に着替え、ウォークインクローゼットへ入る。そこには古川寒弥の「半分」がある。
スーツ、シャツ、ネクタイ。どれも皺ひとつなく整えられ、角度まで計算したように並んでいた。
三年。
彼女は最も有能な管理人みたいに、彼の生活のすべてを整えてきた。けれど――彼の心の中にだけは、一度も入れてもらえなかった。
須藤寧音はスマホを手に取り、いつもの癖で今日の予定を確認しようとして、指が画面に触れる寸前で止まる。
……なんだろう。全部、急に色褪せた。
その瞬間、スマホがけたたましく震えた。表示された名前は「文さん」。
文さんは彼女のマネージャーで、無名の新人だった彼女を「梵音」の座まで引き上げてくれた恩人でもある。
須藤寧音は一度、深く息を吸ってから通話を取った。
「寧音! ニュース見た?!」
耳を刺すほど焦った声。怒りまで混じっている。
「……ニュースって?」寧音の声は起き抜けの掠れを残していた。
「創世紀だよ、創世紀! 声明出した!」文さんは向こうで噛みつくように言う。「『オラクル』! 年度S+案件の! ヒロイン――『光の女神』のキャスト、正式発表したんだよ!」
須藤寧音の胸が、沈んだ。
『オラクル』。創世紀が五年をかけ、数十億を投じて作り上げたオープンワールド。ゲーム業界だけじゃない。声の世界まで含めて、今年いちばん注目される企画。
ヒロインの「光の女神」は設定が複雑で、感情の層も深い。求められる技量は、容赦がない。
企画が立ち上がった時点で、業界では半ば常識になっていた。
――この役は、梵音しかない。
創世紀のプロデューサーが、文さんに「須藤寧音のために作った」とまで漏らしたこともある。
寧音は半年間、準備した。資料を読み込み、背景を咀嚼し、呼吸の癖まで役に寄せた。もう自分の中には、光の女神が棲みついている。
「……私じゃない、んだよね」
囁くような問い。
電話の向こうが、短く沈黙した。
次の瞬間、文さんの声が爆発する。
「違う! おまえじゃない! 鈴木真久って新人だ!」
「知ってるか? そいつ、西川星奈のスタジオがこの前拾った子だって!」
西川星奈――。
昨夜が、脳裏に蘇る。勝ち誇った笑み。わざと見せつけるような仕草。
そして、古川寒弥の冷たい視線。
……そういうことか。
彼は彼女の尊厳を踏みにじっただけじゃない。手ずから、彼女の仕事まで断ち切りに来た。
「寧音? 寧音、聞いてる?!」
須藤寧音は喉の奥が締めつけられ、息が詰まった。言葉が出ない。
手の中のスマホが力なく滑り落ちる。
「ぱんっ」
鈍い音がカーペットに吸い込まれた。
世界がぐらりと傾き、耳の奥がじわじわと鳴る。
寧音はクローゼットの扉に手をついて、ようやく立っていられた。
これが――古川寒弥からの結婚三周年の贈り物?
別の女を家に連れ込んで羞辱して。
さらに、その上でこう告げる。
古川寒弥は、与えるのも簡単。奪い、壊すのはもっと簡単だ、と。
そのときだった。落ちたスマホの画面が点き、ツイッターの通知が弾けた。
須藤寧音は震える手で拾い上げ、勝手に動く指でタップしてしまう。
トレンド1位。
「#西川星奈オラクル#」
嫌な予感のまま西川星奈のアカウントを開くと、最新の投稿が、まるで公開処刑の宣戦布告だった。
西川星奈
「最初から私のものだったの。今はただ、元の場所に戻っただけ」
添えられた写真。『オラクル』の巨大な宣伝ポスターの前で、可憐に笑う西川星奈。
そして背景に――背の高い男の横顔のシルエット。
ぼやけた輪郭だけで、わかってしまう。
古川寒弥だ。
役を奪った。
それだけじゃない。こんな形で、全世界に見せつける。彼の偏愛と、彼女の敗北を。
須藤寧音は目の前が暗くなり、ふらりと後ずさった。
彼女はこの豪奢な檻に閉じ込められ、終わりのない冷たい暴力と罰を受けてきた。
それでも、声だけは残っていた。仕事と名誉だけは、生きるための最後の場所だった。
なのに、そこまで奪うつもりなのか。
完全に地べたへ叩き落として、世界から見捨てさせるつもりなのか。
深い無力感が、波みたいに押し寄せる。膝が笑い、立っていられなくなる。
――そのとき、また着信。
見知らぬ番号。けれど、局番が古川本家のものだった。
心臓が跳ねる。寒弥だと思って、切ろうとする。
指先が画面の上で止まり、押せない。
結局、通話ボタンを滑らせた。
「……もしもし」
返ってきたのは、寒弥の氷の声じゃなかった。
年老いて、やさしい声。
「ねねか?」
古川爺さん。
須藤寧音は鼻の奥がつんと熱くなり、込み上げるものを押さえながら答える。
「……お爺さん、私です」
「ニュースは見た」古川爺さんの声には痛々しいほどの労わりと、どうにもならない無念が滲む。「気にするんじゃない。役なんて一つだ。ねねの実力なら、いくらでも次がある」
久しぶりの、ちゃんとした心配の言葉。
その一撃で、須藤寧音の堤防は崩れた。涙が勝手に溢れ、口元を押さえないと嗚咽が漏れてしまう。
「まったく、あの馬鹿が……」古川爺さんが向こうで重く息を吐く。「安心しろ。お爺さんが生きているうちは、おまえは古川家の正真正銘の孫嫁だ。誰にも揺るがされ――こほっ……こほこほ……!」
言葉の途中で、突然激しく咳き込んだ。
「お爺さん、大丈夫ですか!」寧音は慌てて声を上げる。
「大丈夫だ、持病だよ」古川爺さんは呼吸を整え、また穏やかに言う。「とにかく、ねねは思い詰めるな。寒弥と張り合うな。あいつは……本当に筋が悪いだけの阿呆だ」
須藤寧音は必死に顎を上げ、涙を押し戻そうとした。けれど声はどうしても震える。
「……ありがとうございます、お爺さん」
「何を他人行儀な」古川爺さんは小さく笑って、すぐにため息へ変わる。「お爺さんもわかってる。おまえに、ずっと辛い思いをさせた……寒弥はな、融通が利かない。あいつは……あいつは星奈に、負い目があると思い込んでる」
負い目?
須藤寧音の心臓が、嫌な音を立てた。
「……負い目って、何のことですか」
数秒の沈黙。
「……いや、何でもない。昔の話だ」古川爺さんは話を切り上げるように言う。「ねね、覚えておけ。辛いことがあったらお爺さんに言え。お爺さんが守ってやる」
通話が切れたあとも、須藤寧音はその場に立ち尽くしていた。
さっき、お爺さんが言いかけて飲み込んだ言葉が、頭の中で何度も反響する。
――昔、いったい何があったの?
