第3章 命の恩人

古川爺さんとの通話を切って間もなく、本家の執事から電話が入った。声色はいつも通り、温度のない事務的なものだった。

「若奥様。奥様より、今夜は本家で夕食をご一緒するようにとのことです」

普段なら、須藤寧音は適当な理由をつけて断っていただろう。

昨夜の屈辱と、今日のニュースのあとでは、自分に敵意むき出しの義母と、心を殺してしまった夫に、向き合う気力など残っていない。

けれど――古川爺さんが言いかけた、あの言葉が。

どうしても彼女を動かした。

当時、いったい何があったのか。

部分的に記憶が曖昧になっている、あの火事。

そこには、自分の知らない何かが隠れている気がする。

そしてその「何か」こそが、古川寒弥との間に生まれた矛盾の根っこなのではないか――。

そんな思いを抱えたまま、須藤寧音は車中でも一言も発さなかった。

車は滑るように古川本家の庭へ入る。

中華式庭園の趣を持つ広い邸宅。楼閣や東屋が古雅で美しいはずなのに、どこか人を寄せつけない冷えが漂っている。

門前には執事がすでに待っていた。須藤寧音の姿を認めると、形式的に一礼する。

「若奥様。大旦那様、旦那様、奥様はすでに食堂にてお待ちです」

須藤寧音は小さく息を吸い、見慣れた食堂へ足を踏み入れた。

長い紫檀の食卓。

上座には、古川寒弥の父――古川正弘が威厳を崩さず腰を据え、母の林田雪華は露骨に不機嫌そうな顔をしている。

古川爺さんは脇の席で、彼女を見るとやわらかく笑い、手招きした。

そして古川寒弥は、母の隣でいつも通りの無表情。

――だが。

須藤寧音の心臓が、きゅっと縮んだ。

古川寒弥の反対側に、ここにいるはずのない人物が座っていたのだ。

西川星奈。

薄い白のロングドレス。すっぴんに近い顔に、ちょうどいい加減の青白さと儚さをまとい、長い髪は肩に素直に落ちている。白い蓮――そんな言葉が浮かぶほどの「清楚」を作り上げていた。

須藤寧音が入ると、星奈はすぐ立ち上がり、申し訳なさそうな笑みを浮かべる。

「寧音さん、来てくれたんですね。寒弥さんが、私ひとりで家にいるのは不便だろうって。本家にもおじゃまして、おじさんとおばさんにご挨拶しようって……」

林田雪華は星奈の手を取る。愛おしさが滲む眼差しが、溢れそうなくらい濃い。

「本当にいい子ね。どこかの誰かとは大違い」

そう言いながら、須藤寧音へ視線を投げる。

次の瞬間、氷のように冷えた目になり、吐き捨てた。

「いつまで突っ立ってるの。お客さまが来てるのが見えない? まったく、礼儀ってものがない」

須藤寧音は黙って指先を握りしめた。爪が掌へ食い込み、じんと痛む。

三年。ここで彼女はいつだって「外の人間」だ。

なのに西川星奈は、たやすくこの家の好意を総取りしていく。

「ねね、こっちへ来なさい。じいちゃんの隣だ」

古川爺さんが間に入ってくれた。

須藤寧音はその隣に座り、小さく頭を下げる。

「爷爷……お義母さん」

「その呼び方、やめてくれる?」

林田雪華が即座に遮った。嫌悪を隠しもしない。

「雪華!」

古川爺さんが低い声で叱ると、林田雪華は不満げに口を噤んだ。

けれど、家族の食卓は最初から終わっていた。

林田雪華は星奈にばかり取り箸を伸ばし、体調を気遣い、まるで実の嫁のように扱う。

「星奈、痩せすぎよ。もっと食べなさい。海外にいた数年、苦労したでしょう」

「これも。あなたのために台所に頼んで煮させたの。身体に一番いいのよ」

星奈はおとなしく頷き、礼儀正しく受け取る。

そのたびに、ちらり、と。対面の須藤寧音へ視線を流す。羽根みたいに軽いのに、刺はしっかりある。

古川寒弥は口を開かない。

それでも、彼の目が時折、星奈の顔へ落ちるのを須藤寧音は見逃せなかった。

隠しきれない気遣い――その気配が胸を抉る。

須藤寧音は無表情で箸を動かした。

口に入るものは、砂みたいに味がしない。

食事が終盤に差しかかったころ、使用人が湯気の立つ松茸の椀を運んできた。

そのとき、星奈がふいに立ち上がり、にこりと微笑む。

「木下さん、私がやります」

そう言って椀を受け取り、配ろうとする。

周囲は口々に「気が利く」「偉いね」と褒め、林田雪華は上機嫌で頬を緩めた。

星奈は器を両手に、主座へ回り込む。

須藤寧音の横を通りすぎる――その瞬間。

ぐらり。

星奈の足元がもつれ、身体が前へ流れた。

短い悲鳴。次いで、

「ガシャンッ」

器が須藤寧音の足元で砕け散った。

熱い汁の大半は床へ広がったが、飛び散った数滴が星奈の細い腕に跳ね、たちまち赤く腫れた痕を作る。

食堂が一気にざわめき、混乱に沈む。

「星奈!」

「医者を呼べ!」

林田雪華と古川寒弥が同時に駆け寄った。

古川寒弥は数歩で星奈の前に屈み、火傷した腕を掴む。

その瞳には怒りと、痛みを代わってやりたいような色が渦巻いていた。

「大丈夫か」

背をさすり、声を落として何度も宥める。

その優しさと忍耐は――須藤寧音が、一度も与えられなかったものだ。

林田雪華は今にも泣き出しそうに星奈の腕を抱え、使用人たちへ怒鳴り散らす。

「何してるの! 早く冷やすものと薬を持ってきなさい!」

「どこが熱い? 見せて、早く!」

星奈は唇を震わせ、涙を溜めた目で首を振った。

「寒弥さん……おばさま、私、大丈夫……でも……誰かに、つまずかされて……」

その言葉で、林田雪華の顔が爆発する。

彼女は勢いよく振り向き、須藤寧音を睨みつけた。

「須藤寧音! あんたでしょう!」

「どんなつもり?! 星奈に良くしてるのが気に入らなくて、嫉妬で頭がおかしくなったの? だからわざと足を出して――!」

須藤寧音は全身が冷えた。

歪められた言葉が、容赦なく刺さる。彼女は唇を開いた。

「……違う。私は……」

「まだ言い訳するの?!」

林田雪華は許さない。言葉を奪い取る勢いで畳みかけた。

「あんたの性根がどれだけ腐ってるか、ここにいる誰だってわかる!」

「星奈があんたに何をしたのよ! どうしてこんなことができるの!」

「雪華、落ち着け!」

古川爺さんが杖を床へ強く打ちつけ、場を抑えようとする。

だが林田雪華は聞かなかった。

感情が決壊し、叫ぶように言い返す。

「お父さん! いつまでこの子を庇うんです!」

そして、古川寒弥の胸元に縮こまり震える星奈を指さした。

「忘れたんですか?!」

「あのとき、星奈が寒弥を助けなかったら、寒弥はとっくに死んでた!」

「そのせいで星奈は身体に無理が残ったのよ! この子は古川家の恩人なの!」

その一言一言が、須藤寧音の胸を真っ二つに割った。

身体が硬直し、頭の中が真っ白になる。

……どういう、意味?

彼女の知らない「当時」。

火事。記憶。

そして、古川寒弥と西川星奈――。

須藤寧音は、言葉を失ったまま立ち尽くした。

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