第4章 君が彼女に負っているものは、一生かかっても返しきれない
あのとき――炎の中から古川寒弥を引きずり出したのは……西川星奈だったの?
須藤寧音は、あの火事はただの事故だと思い込んでいた。古川寒弥も、自分と同じ「被害者」だと。
けれど知らなかった。あの事故の中に、「救出」という場面があったことを。
しかも、その身を投げ出した英雄が――西川星奈だなんて。
須藤寧音の視線が、虚ろに古川寒弥へ向く。
彼は西川星奈を抱きかかえたまま、寧音に背を向け、何も否定しなかった。
その瞬間、過去三年、どうしても腑に落ちなかったことが、音を立てて繋がっていく。
――そういうことだったのだ。
彼にとって。古川の家の人間にとって。
西川星奈は命の恩人で、英雄で――守るべき存在。
では、須藤寧音は?
火事のあとに「隙を突いて入り込んだ」女。
本来なら恩人がいるはずの「古川の奥さん」の席を奪った女。
……卑怯で、人の人生を盗んだ、泥棒なの?
胸の中がすとんと空っぽになり、息を吸うのさえ痛かった。
レストランの騒ぎは続いている。誰もが西川星奈を囲み、隅で紙みたいに青ざめて立ち尽くす古川家の若奥様に気づきもしない。
世界から切り離されたみたいだった。
周りの音が遠ざかっていく。
残ったのは、自分の胸の奥で響く、ひび割れていく音だけ。
「寒弥さん……わ、私……大丈夫……」
西川星奈の声が泣き腫らしたみたいに震える。
「寧音さんも、わざとじゃないと思うの。だから……責めないで……」
その言葉が優しいほど、古川寒弥の怒りはさらに濃く燃え上がった。
彼は顔だけをこちらへ向けた。
底の見えない瞳に、隠しようのない怒火。
「須藤寧音」
低く名を呼び、吐き捨てるように言う。
「おまえの心って、どれだけ毒なんだ」
毒……?
須藤寧音の身体がぐらりと揺れ、立っているのがやっとだった。
何も確かめようとせず、いきなり「悪意」の札を貼る男。
その顔を見た途端、胸の奥に溜め込んでいた悔しさと屈辱が、堰を切って溢れた。
「違う……!」
震える声で、必死に叫ぶ。
「私、足を引っかけてない! あの人が……あの人が、スープを持ったままぶつかってきたの!」
事実だ。
けれど古川寒弥は、信じない。
彼にとってそれは、性根の腐った女の、みっともない言い逃れでしかなかった。
古川寒弥の口元が歪む。凍りついた嘲笑。
「自分からぶつかった?」
まるで笑い話でも聞いたみたいに鼻で笑う。
「須藤寧音。おまえのこと、虚飾ばかりだとは思ってたが……そこまで卑しいとはな」
「やったのに、認める度胸もないのか」
声が一段、鋭く跳ね上がる。
「三年前もそうだ。手を使って俺に結婚を飲ませたくせに」
「今度はこんな下種な手で星奈を潰す気か」
「やったのに認めない。いつまで言い訳するつもりだ!」
「もういい!」
杖が床を叩く音が、どん、と鳴り響いた。
威厳ある声が、喧騒を一瞬で押し潰す。
「寒弥! 自分の妻に向かって、その口の利き方は何だ!」
古川爺様は胸を上下させ、怒りを噛み殺すように言った。
「寧音がどんな子か、わしがおまえより知っとる。あの子がそんな真似をするはずがない!」
「爺さん!」
古川寒弥の声に、苛立ちが滲む。
「あなたは、あいつの可哀想な顔に騙されてるだけだ」
彼は西川星奈の赤くなった腕を、壊れ物みたいにそっと持ち上げる。
「怪我してるのは星奈だ。あいつじゃない。じゃあ誰がやった?」
「ここまで来て、まだ庇うのか」
「ほら見なさい!」
林田雪華が勢いよく割り込み、須藤寧音を指さして甲高く叫ぶ。
「この毒女! 星奈を傷つけるだけじゃなく、お義父さままで怒らせて! 死なせる気!?」
「黙れ!」
古川爺様が再び怒鳴った瞬間、怒気が引き金になったのか、激しい咳が込み上げた。
「ごほっ、ごほっ……!」
「お父さま!」
林田雪華は背中をさすりながら、口だけは止めない。
「落ち着いてくださいよ。こんな人間のために腹を立てることありません」
「寒弥、早く! 星奈を病院へ。手遅れになったらどうするの!」
古川寒弥は須藤寧音を、深く――冷たく見た。
須藤寧音は口を開いた。
けれど言葉にならない。
どんな説明も、彼の先入観の嫌悪の前では、滑稽で、脆くて、吹けば飛ぶ。
命を懸けて救った恩人と。
結婚を「押しつけた罪人」。
どちらを信じるかなんて、最初から決まっている。
弁解すらできず立ち尽くす姿を見て、古川寒弥の目の底の嫌悪がさらに濃くなる。
もう、これ以上話す価値もないと言わんばかりに。
彼は屈み、西川星奈を抱き上げた。
「寒弥さん……」
西川星奈はそのまま彼の胸に頬を埋める。
「怖がるな。病院へ行く」
そう言って、振り返りもせず出口へ向かった。
扉を出る直前、古川寒弥の足がわずかに止まる。
それでも、こちらを見ないまま言い放つ。
「おまえが彼女に返すべきものだ」
「須藤寧音。二度と近づくな」
須藤寧音の世界が、その瞬間、完全に崩れ落ちた。
「この疫病神が!」
林田雪華の罵声が、頭から叩きつけられる。
「お義父さまがいなきゃ、今すぐ叩き出してるところよ!」
「部屋へ戻りなさい! 私の許可なしに出てくるんじゃない!」
視界が滲み、耳がじんじんと鳴る。
悪意の言葉が濁流みたいに押し寄せ、須藤寧音を飲み込んでいった。
鉛みたいに重い足を引きずり、リビングへ向かう。
足首の傷がじわりと開き、血が絨毯に小さな点を残していく。
誰も見ない。
誰も気にしない。
須藤寧音は、がらんとしたリビングの真ん中で立ち尽くした。
シャンデリアの光が刺さって目が痛いのに、世界は、手を伸ばしても何も掴めない闇だった。
心が砕け切ると、痛みは消える。
残るのは、骨の髄まで冷えていく寒さだけ。
そのとき――
あたたかい小さな手が、氷みたいに冷えた彼女の掌に滑り込んできた。
須藤寧音は硬直したまま、ゆっくりと見下ろす。
五、六歳の男の子。
整った顔立ち。黒い葡萄みたいに澄んだ大きな瞳で、不安げに彼女を見上げている。
名目上の息子、古川辰。
下の言い争いで目が覚めたのだろう。かわいいキャラクター柄のパジャマのまま、髪が少しはねている。白い頬には焦りが張りついていた。
「ママ……」
鼻にかかった甘い声。
彼は須藤寧音の頬の涙の跡を見つけると、もう片方の手を伸ばし、不器用に拭おうとする。
「ママ……泣かないで……」
たったそれだけの言葉が、須藤寧音の胸に最後の鍵を外した。
押し殺してきた悔しさが、堰を切る。
もう、止められなかった。
須藤寧音はしゃがみ込み、小さな身体をぎゅっと抱きしめる。
「辰ちゃん……」
声は壊れて、形にならない。
この家で、彼女はずっと影みたいに生きてきた。
なのに――世界中に捨てられたその瞬間、走ってきてくれたのは、この子だった。
古川の家に本当の意味で受け入れられていない、同じ孤独を抱えた子が。
