第5章 体の具合が少しおかしい
翌日、古川本家は、どこか異様な静けさに沈んでいた。
林田雪華は今日に限って絡んでこない。昨夜、お爺様のところで手痛い目にでも遭って、部屋で不貞腐れているのだろう。
古川爺様も相当腹に据えかねたのか、朝食には姿を見せず、ずっと自室に籠もったきりだ。
広すぎる屋敷の中で聞こえるのは、使用人たちがわざと忍ばせた足音だけ。
残されたのは、須藤寧音と古川辰の二人だった。
「ママ、きょう、なんか……げんきない?」
幼い声が沈黙を破る。
辰は小さなフォークを置き、黒葡萄みたいな澄んだ瞳で、まっすぐ寧音を見上げた。
胸の奥がきゅっと掴まれる。
寧音は反射的に表情を整え、辰の唇の端についたケチャップを指先でそっと拭った。声だけでも、いつも通り柔らかく。
「ううん。辰ちゃんがちゃんと食べてるの見たら、ママ、うれしいよ」
皿の中の目玉焼きを食べやすく切り、温めたミルクを辰の前へ寄せる。
小さな口で一生懸命もぐもぐする姿を見ていると、荒れ地みたいな心に、かろうじて薄い慰めが差した。
――たぶん、これが。
彼女がまだ、この檻に留まってしまう唯一の理由。
そのとき、テーブルに置いたスマホの画面がふっと明るくなった。ニュースの通知。
何気なく視線をやっただけなのに、太字の見出しが刺さる。
【独占追跡! 古川グループ社長・古川寒弥が徹夜で付き添い 西川星奈、最高級のプライベート病院へ!】
【十三年の一途、ついに報われる 古川寒弥と西川星奈、病院ガーデンでの微笑ましいひととき】
指先が白くなる。
それでも、いちばん熱いリンクを、結局タップしてしまった。
精心に切り取られた高解像度の写真が、画面いっぱいに広がる。昨夜、寒弥が吐き捨てた冷たい言葉よりも、ずっと致命的な衝撃で。
背景は、私立病院の静かな裏庭。
金色の朝日が枝葉の隙間から落ち、芝生にまだらな光を散らしている。
長椅子に横向きに座る古川寒弥。
彼は頭を垂れて、西川星奈の肩へ自分のスーツジャケットをそっと掛けていた。背筋は真っ直ぐで、上質な生地が広い肩を際立たせる。
いつも寧音に向けるあの黒い瞳は、いま、ひたすらに集中と――溶けようのない労わりで満ちていた。まるで腕の中の人が、壊れ物の宝石みたいに。
西川星奈は、大きめの病衣のまま、骨がないみたいに彼へ寄り添っている。
小さく見上げた目には涙が滲み、願いが叶った者だけが浮かべる、ひそやかな羞恥が宿っていた。
――絵になる。
油彩画みたいに、綺麗すぎる。
記事の文面は、あまりにも「いい話」だった。
【十三年前、事故の瞬間――彼のために身を挺し、後遺症を負って遠い地へ。十三年後、彼女は戻り、彼は一歩も離れず寄り添う】
【西川さんの手の火傷は軽傷。ただし当時の持病が再発し、当面の安静が必要。古川社長は全ての予定を取りやめ、付き添いに徹しているという】
十三年。
彼らの因縁は、そんなにも長かったのか。
写真の中の寒弥の優しい横顔を見つめても、寧音の胸は空っぽだった。痛みさえ、もう鈍い。
この三年間、息を潜めて機嫌を取り、黙って尽くし、夜にひとり待ち続けた時間――全部が、彼らの「偉大な愛」を飾る引き立て役の笑い話だった。
世界は彼の深情に感動している。
けれど誰も言わない。
その深情な男には、家に、正式に迎え入れた妻がいることを。
いや、知っている者にとっては。
「古川奥さん」なんて、最初から飾りだったのだろう。
「……ふふ」
唇から零れたのは、笑いというより自嘲だった。
次の瞬間、胃の底がぐわりとひっくり返る。込み上げる酸っぱさが喉元まで突き上がった。
「うっ……」
寧音は咄嗟に口元を押さえ、体が折れるほど前かがみになる。視界がぐらりと揺れ、目の前がすっと暗くなった。
「ママ? どうしたの? こわいよ!」
辰が小さな手で服の裾を掴む。泣きそうな声。
「……だいじょうぶ」
寧音は何度も深呼吸して、せり上がる不快感を押し込めた。辰の頭を撫で、泣くより酷い白い笑みを作る。
「ちょっと……つかれただけ。すこし、すわったら平気」
――まただ。
ここ数日、理由のない吐き気と、言いようのない倦怠感が何度も襲ってくる。
感情を押し殺し続けたせい、そして大事な収録台本を仕上げるための徹夜で身体を消耗したせいだと、寧音は勝手に片づけていた。
テーブルに手をついて立ち上がろうとする。温かい水でも飲もうと。
しかし、力を入れた途端、四肢が鉛みたいにだるく、踏ん張れない。
ふらり。
身体が傾き、横へ倒れそうになった瞬間――。
「奥様っ!」
少し離れて控えていた長島が駆け寄り、慌てて支えた。
「大丈夫ですか? お顔が真っ青で……!」
「平気です、長島さん」寧音は肩を借りて、ようやく姿勢を戻す。「たぶん、低血糖で……」
心配そうな辰を長島に託し、幼稚園のバスへ乗せて見送る。
そのあと寧音は書斎に籠もり、仕事で自分を麻痺させようとした。
けれど、並ぶ文字は次第に滲み、歪み、結局すべてが――写真の中の寒弥の横顔に変わっていく。
ペンを取り落とした。ころり、と高い絨毯の上を転がる。
寧音は掌の冷たさに額を押しつけ、肩を小さく震わせた。
午後。
古川爺様に呼ばれ、寧音は部屋へ通された。
大きな手が彼女の手を包み、ため息が落ちる。
「苦労させてしまったな。すまん」
寧音は首を横に振り、笑ったつもりで唇を引く。
「お爺様、私は……大丈夫です」
「寒弥のあの阿呆め!」
爺様は杖で床をどん、と打った。
「心配するな。この古川家の孫嫁の席はな、お前以外に座らせん。誰にもだ」
寧音は、答えなかった。
その「席」そのものを――もう、欲しいと思えなかった。
……。
夜。
寧音は古川邸へ戻った。
本家の息苦しい空気に押し潰されそうで、それでも彼女はひとり、この空っぽの家に戻るしかない。
静まり返った寝室で横になっても、眠れない。何度も寝返りを打つ。
どれくらい経ったのか。
枕元のスマホが、唐突に鳴り出した。静寂の夜に、やけに刺さる音。
画面に浮かぶ名前。
骨に刻まれるほど見慣れたそれ。
古川寒弥。
あの家宴以来、初めて彼からの着信だった。
心臓が勝手に跳ね上がり、寧音は息を整えて、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
「明日の朝9時。爺さんの再検査、付き添え」
電話の向こうの声は平坦で、感情がない。
挨拶もない。説明もない。
まるで、これまでの屈辱も傷も、最初から存在しなかったみたいに。
寧音はスマホを握ったまま、言葉が出ない。
相手は苛立ったのか、淡々と付け足す。
「爺さんの病歴と薬は、おまえがいちばん把握してる」
「主治医の木下教授の連絡先も、おまえだけだ」
「遅れるな」
それきり。返事を待たず、ぶつりと切れた。
ツーツーという虚しい音だけが耳に残る。
寧音はゆっくり目を閉じた。
――彼は、彼女のことを覚えている。
ただし、それは「妻」だからじゃない。
この家で、まともに「孫嫁」を演じられるのが、寧音しかいないからだ。
嫌い、厭い、遠ざける。
それでも必要になれば、当然のように使う。
寧音は布団の中で身を縮め、枕へ顔を埋めた。
声にならない笑いが漏れる。
涙だけが、どうしても止まらなかった。
