第6章 離婚しよう
翌朝、8時55分。
須藤寧音は時間ぴったりに古川本家の門前へ現れた。
キャメル色のカシミヤコートが、もともと血の気の薄い顔をいっそう白く見せる。
それでも背筋は真っ直ぐ。顎をわずかに上げ、みじめさなど欠片も纏っていなかった。
玄関には古川寒弥が先に待っていた。相変わらず冷たく、他人行儀な気配。
彼は寧音を見ると、まぶたを少し持ち上げただけで何も言わない。踵を返し、そのまま車庫へ向かった。
須藤寧音はその背を追う。二人の距離は三歩分。
交わらない平行線みたいに。
道中、言葉は一つもなかった。
車内の空気は重く、息が詰まる。
病院に着くと、古川爺さんは執事を伴ってラウンジで待っていた。
寧音の姿を見つけた途端、沈んでいた表情にようやく笑みが浮かぶ。
「ねね、来たか」
「おじいさま」
須藤寧音は自然に近づき、執事の手からカルテを受け取る。木下教授とも手慣れた様子で近況を確認し、これからの検査の段取りを整えていく。
声は穏やかで、落ち着いていて、要点だけを過不足なく並べる。感情の揺れは一切ない。
古川寒弥は脇に立ったまま、彼女の動きを見ていた。
医師や看護師に向ける、あの仕事用の微笑み。丁寧で、距離がある。
――思ったより、ずっと強い。
あれほどの侮辱と糾弾を浴びせられて、なお、この平静。
まるで、人を粉々にするはずの悪意が、彼女にだけは爪痕を残せなかったみたいに。
午前中の検査が終わるまで、須藤寧音はほとんど休まなかった。古川爺さんの傍を離れず、必要なことを淡々とこなす。
あの馴染みの吐き気が、また喉元までせり上がった。
それでも彼女は、奥歯を噛みしめて押し殺す。
ここで崩れるわけにはいかない。
結果は異常なし。古川爺さんは機嫌よく、顔色も明るくなった。
帰り道、老人は隣に並ぶ二人を見比べ、重々しく口を開く。
「寒弥。ねねはいい子だ。いつまでもそんな仏頂面で当たるんじゃない」
古川寒弥はハンドルを握る手に力を込めたが、返事はしない。
「夫婦なんぞ、話してみりゃ大抵のことは解ける。こじらせるから拗れるんだ」
「男なら少しは譲ってやれ。自分の嫁だろう」
一言一言が、細い針みたいに須藤寧音の胸を刺した。
彼女はそっと顔を横に向け、窓の外へ流れていく街並みに視線を逃がす。目の奥が熱くなる。
でも――遅い。
壊れたものは、もう戻らない。どれだけ丁寧に集めても、元の形にはならない。
……
古川爺さんを送り届けたあと、須藤寧音はあの息苦しい家へは戻らなかった。
運転手に告げ、向かったのはスタジオだった。
文さんが彼女を見るなり目を丸くする。
「どうしたの、来ちゃって。顔色、最悪よ? 家で数日休んでなきゃ」
「大丈夫」須藤寧音は首を振った。「じっとしてるほうが、余計に息が詰まる」
彼女は自分専用のブースへ入る。
小さな密室。そこだけが、彼女の避難所だった。
ここにいる間だけは、古川奥さんであることを忘れられる。
あの忌まわしい過去も、名前も。
ただ「梵音」に戻れる。
文さんはその細い背中を見つめ、痛ましさと諦めを混ぜた息を落とした。
「……まあ、いいわ」
そして新しい企画書を差し出す。
「星川・アニメーションの大型案件。中国からのビッグプロジェクト――『山海経・青鸞』。ヒロイン『羽』のキャスト。監督があなたを指名」
須藤寧音は台本を受け取り、ページを繰った。
成長と救済の物語。無垢な少女だった「羽」が傷つきながらも歩き、最後には土地を護る神女へと至る。
その軌跡が――どこか、自分と重なる。
「受けます」
古川寒弥は彼女から何だって奪えるだろう。
けれど、骨に刻まれた仕事への矜持と、声への愛まで奪うことはできない。
それが、彼女の最後の鎧だった。
それから数日、須藤寧音はほとんど録音棚に籠もった。
台本を読み込み、心の襞を探り、感情のすべてを声へ注ぐ。
「羽」の喜びも怒りも哀しみも、声で形にする。
同時に、自分の置き場のない痛みを、役に預けて吐き出す。
仕事は一時の麻酔になる。
だが身体の不調は、日増しに頻繁になった。
空えずき。めまい。異様な眠気……。
文さんは見ていられず、何度も病院へ行けと促したが、須藤寧音は「忙しいから」とかわし続けた。
行けなかった。
怖かったのだ。自分が聞きたくない答えを。
その日の午後。一本録りを終え、須藤寧音がぐったりと椅子に沈みかけたとき、文さんがブースのドアを押し開けた。顔色が硬い。
「西川星奈が来てる」
須藤寧音の動きが止まる。
「あなたに渡すものがあるって」
須藤寧音は手元の水を置き、無表情のまま立ち上がって外へ出た。
スタジオ併設のカフェ。西川星奈は窓際の席を選び、腰掛けていた。
退院したばかりとは思えないほど整っている。シャネルのワンピース、淡いメイク。腕の包帯は外れ、薄桃色の痕が細く残るだけ。
須藤寧音を見ると、ぱっと花が咲くように笑った。明るく、無垢で、天使めいた笑み。
「寧音さん。来てくれたのね」
向かいの席を指す。
「座って」
須藤寧音は座らない。見下ろすように視線だけ落とし、温度のない声を出した。
「用件は?」
西川星奈は気にした様子もなく、エルメスのバッグから書類を一通取り出し、テーブル中央へそっと滑らせる。
「寒弥さんから。これ、渡してって言われたの」
離婚協議書だった。
須藤寧音の胸の奥が、きりりと痛む。
目を伏せ、署名欄を見た。
古川寒弥。
勢いのある筆致。鋭い線。本人そのものみたいな署名。
――もう、サインは済んでいる。
「寒弥さんね、もうあなたの顔も見たくないし、これ以上一言も話したくないんだって。だから私に任せたの」
西川星奈は目の前のコーヒーを持ち上げ、上品に一口含む。
声は相変わらず甘く柔らかいのに、言葉は刃物のように的確だった。
「それから、あの家と……あなたのカードに入ってる10億は、そのままあなたにあげるって」
「この3年、彼と、彼の息子の面倒を見た『費用』だって」
そして、蒼白になった須藤寧音を見て、微笑みにほんのわずかな憐れみを混ぜる。
「寧音さん、ありがとう」
「この数年……私の代わりに、彼のこと守ってくれて」
――代わり。
彼女が必死に支えた3年は、結局、代用品としての3年だった。
本物が戻ってきたから、代用品は引っ込め。
屈辱と痛みが、喉元までせり上がる。
須藤寧音は、死刑宣告みたいに置かれた協議書を、長い時間見つめた。
長すぎて、西川星奈のほうが先に落ち着かなくなるほどに。
やがて須藤寧音は顔を上げた。目は冷え切っている。声も。
「これは私と彼の問題」
「あなたが口を出すことじゃない」
「本人に来させて。私と話すように言って」
