第2章
「……あんたたち、みんな私が美咲の邪魔だって思ってるんでしょ。だったら今日から、一ノ瀬家の『お嬢様』の席は、あの子に譲るわ」
美月はポケットからキャッシュカードを取り出し、玄関の下駄箱の上に置いた。
「これ、私が一ノ瀬家に来てから使わせてもらったお金。全部返す。一円たりとも欠けてない」
「これで私と一ノ瀬家は、もう何の関係もない」
「それから――チェロ首席は譲らない。欲しいなら、実力で取りに来ればいい」
言い終えると、美月はドアを引いた。ひゅう、と冷たい風が吹き込み、頬を刺す。
背後が、しん……と静まり返った。
彼らは、まさか美月がここまで本気で出ていくとは思っていなかったのだろう。誰も、すぐには反応できない。
その沈黙の中で、美咲の瞳の奥にぬめるような光が走った。
次の瞬間、美咲は隼人の腕からするりと抜け出し、よろよろと美月の背へ駆け寄る。
そして美月の手をぎゅっと掴み、泣き声混じりに叫んだ。
「お姉ちゃん! 行かないで……! 全部、私が悪いの……! 首席のことだって、私が欲張ったから……!」
「お姉ちゃんこそ、この家の本当の娘なのに……。私は……ただの他人だよ。出ていくのは私のほう、だよね……!」
もちろん、本気で引き留めるつもりなどない。
一歩引いて見せて同情を集め、美月への嫌悪をさらに固める――それが目的だ。
そう思った瞬間、美咲の目の底に、毒が滲んだ。
――爪が立つ。
美月の掌、その傷口へ。ぐりっ、と容赦なく。
ぱっと傷が開き、血がまた溢れ出した。
「――っ!」
美月は息を呑み、反射で腕を振り払った。
「触るな!」
美咲の目に、勝ち誇った光がちらつく。
「きゃっ!」
わざとらしい悲鳴とともに、身体を後ろへ投げた。どさり、と床に倒れ込み、後頭部を下駄箱の角にぶつける。
額の端がみるみる赤く腫れ上がった。
「美咲!」
由利が甲高い声を上げて飛びつく。
三人の兄も同時に顔色を変え、一斉に駆け寄った。
隼人は二歩で美月に詰め、乱暴に突き飛ばす。
「……おまえ、どこまで最低なんだ! 美咲が善意で引き留めたのに、押すなんて! 性根が腐ってる!」
美月はよろめき、危うく転びそうになった。
滲む血を見下ろし、目に宿るのは冷たさと嘲笑だけ。
――また、この手口。
くだらなくて、稚拙で、反吐が出る。なのに、信じる馬鹿がいる。
案の定、美咲は今にも消えそうな声で隼人の袖を掴んだ。
「……お兄ちゃん。お姉ちゃんを責めないで……。私が……足を滑らせただけ……。お姉ちゃんは悪くないの……」
美月は喉で笑った。笑っているのに、目は一切笑っていない。
「美咲。チェロなんてやめたら? その演技力なら女優のほうが向いてる。一発で売れるわ」
美咲の顔が、さっと青ざめる。
「お姉ちゃん……私、演技なんて……してない……ほんとに……」
拓真の額に青筋が浮いた。
「美咲は額をぶつけて真っ赤なんだぞ。まだそんなこと言えるのか!」
美月は冷たく言い返す。
「赤くなっただけでしょ。死んだわけでもない」
「そもそも先に絡んできたのはそっち。私は正当防衛。目がついてるなら、彼女が私の手を掴んで爪を立てたの、見えたはずよ」
拓海が薄く笑う。
「俺たちが見たのは、おまえが押したところだけだ」
「だって、あんたたちは見たいものしか見ないもの」
美月はもう相手にする気もなく、踵を返した。
すると美咲が、さらに大声で泣き始める。今にも気を失いそうな勢いで。
「お姉ちゃん……私、本当に争いたくない……。こんなふうにお兄ちゃんたちやパパとママと揉めるくらいなら……」
「お姉ちゃんがこの家に戻ってきたとき、私が死んでいればよかった……邪魔にならなかったのに……!」
膝が崩れ、今度は本当に跪こうとする。
隼人が慌てて抱き止めた。目尻まで赤い。
赤い目で美月を睨み、歯を食いしばる。
「美月……美咲は、おまえのせいでうつ病になったんだぞ。本当に、死ぬまで追い詰める気か」
一ノ瀬家の人間が自分を見る目――まるで殺人犯を見るような目に、美月の怒りは臨界を超えて笑いになった。
「本当に死ぬ気の人は、口で死ぬ死ぬ言わないわ」
「誰もいない場所を選んで、静かに屋上から飛ぶ」
美咲を見据え、一字一字切りつける。
「あなたが今こうして生きてるってことは、死ぬ気なんかないってこと」
「それに、うつ病? 診断書は? 薬は? こんなに長い間、あなたが薬を飲んでるの、一度でも見た?」
美咲の顔色が揺らいだ。
――今日の美月、どうしてこんなに刺々しい。今までなら怯えて謝って、必死に媚びてきたのに。
美咲は歯を食いしばり、周りを押しのけて壁に向かって突っ込む素振りをした。
「私は違う……! 死ぬべきなのは私……! 生きてちゃ、いけない……!」
隼人が顔色を変え、強く抱きしめて動きを封じる。
玄関先はたちまち修羅場。皆が美咲をなだめる声で渦を巻いた。
美月はその茶番に背を向け、外へ出ようとする。
「美月! 止まりなさい!」
由利がついに堪えきれず叫んだ。
指先が震え、声まで震えている。
「あなたみたいな不孝者だと分かってたら、最初から家に戻さなかった! あなたが戻ってこの一年、家は一度だって落ち着かなかった! これで満足?!」
美月は振り返り、彼女を産んだはずの女を見た。
命をくれたのに、温もりは一度もくれなかった女を。
そして、ふっと笑った。
「ちょうどいいじゃない。私が出ていけば、一家団欒で幸せに暮らせるでしょ」
由利が言葉を詰まらせた。美月がここまで聞く耳を持たないとは思っていなかったのだ。
美月が敷居をまたいだ瞬間、由利は焦りながらも強硬な口調を崩さず言い放つ。
「今この家を出たら、二度と戻って来られないわよ!」
由利の中では、美月は駆け引きをしているだけだった。
孤児院育ちで苦労した少女が、一ノ瀬家に迎えられて一年の贅沢を味わった。そんな子が、目の前の富と地位を捨てられるはずがない――そう信じている。
他の面々も我に返り、口々に続けた。
隼人が冷たく言う。
「今は強がってても、外で生きられなくなったら泣きついてくるな」
拓真が嘲る。
「言ったこと、ちゃんと守れよ。戻ってきても好意でドアは開けない」
彼らは確信していた。
女ひとり、外で生きていけるはずがない、と。
美月は救いようのない愚か者を見る目で彼らを見返す。
「安心して。路上で餓死しても、ここに戻って泣きつくことはない」
