第5章
美月は声のするほうへ目を向けた。
白髪まじりの老人が、地面に倒れている。
周囲には人だかりができているのに、誰も近づこうとしない。
「どいてください! 救命講習、受けてます!」
美月は人垣をかき分け、老人の傍へしゃがみ込んだ。
脈がない。呼吸もない。
――まずい。
美月は襟元とベルトをほどき、頭を横に向けて口の中の異物を取り除く。
それから両手を重ね、胸骨圧迫を始めた。
一回、二回、三回……。
右手はまだ血が滲んでいる。力を込めるたび、裂けた傷口がさらに開いていく。
それでも、美月は痛みなど感じないみたいに手を止めなかった。
どれほど経ったのか、腕がじわじわ痺れてくる。
だが、止めない。
心停止の患者にとって、一秒が命だと分かっていたから。
それに――美月は、もう気づいていた。
倒れているのは九条宗一郎。
国内でもっとも名の知れた指揮者で、幼い頃から彼女が崇拝してきた存在。
前世、彼の訃報に触れたとき、美月は長いあいだ立ち直れなかった。
だから今世では――絶対に、こんなところで逝かせない。
そのとき、サイレンが近づき、救急車が到着した。
医療スタッフがすぐに引き継ぎ、蘇生を続ける。
美月もそのまま救急車に乗り込んだ。
宗一郎が救急室へ運び込まれたのを見届けて、ようやく張り詰めていた神経がほどける。
次の瞬間、右手にずきん、と刺すような痛みが戻ってきた。
視線を落とすと、掌の傷はぐちゃぐちゃで、血が止まらない。
急患の処置へ向かおうとしたところで、看護師が駆け寄ってきた。
「すみません、少々!」
「さきほど九条宗一郎先生に心肺蘇生をしてくださった方ですか?」
美月は頷いた。
「はい、私です」
「よかった……!」
看護師はほっと息を吐き、続けた。
「ご家族がすぐ到着されます。ぜひ直接お礼をしたいそうで……少しだけ、こちらでお待ちいただけますか?」
美月は少し考えてから頷く。
「分かりました」
救急外来の廊下で椅子に腰を下ろす。
ほどなくして、スマホが鳴った。
藤原彩だ。美月にとって、たった一人の友だち。
「美月、どこ? 仕事終わったよ。大好きな苺ケーキ買ってきた!」
彩の声は、いつもみたいに明るい。
「今、そっちの病院の救急外来」
美月は深く息を吸って言った。
「救急外来!? どうしたの、具合悪いの?」
「大丈夫。手をちょっと怪我して、処置してもらいに来ただけ」
「手!? ひどいの? 待ってて、すぐ行く!」
それだけ言うと、彩は電話を切った。
数分後、彩が駆け込んでくる。
美月の血でべったり濡れた右手を見た瞬間、彩の顔色が変わった。
「……うそでしょ。美月、その手どうしたの!?」
彩は震えるほど心配そうに美月の手を取って確かめる。
「こんな深いのに、なんで今まで病院来なかったの! 死ぬ気!?」
「平気。ちょっと切っただけ。さっき入口でおじいさんが倒れてて、応急手当してたら遅くなったの」
「ちょっとした怪我なわけないでしょ! 骨見えそうじゃん!」
彩は怒ったように睨みつけながらも、手はもう動いている。
「来て。私の診察室で処置する」
彩に引っ張られ、診察室へ。
消毒の匂いが鼻を刺す中、彩は手際よく傷の処置を始めた。
「で、結局なに? どうしてこうなったの。まさか一ノ瀬家がまた?」
堪えきれないように彩が尋ねる。
美月は少し黙って、それから頷いた。
今日あったことを、全部話した。
「……最低。あいつら人間じゃない!」
彩は怒りで手が震えた。
「一ノ瀬家の連中、目がついてない。美月の良さなんて一つも見ない。蓮もね、前から怪しいと思ってた!」
「美月、もっと早く縁切ってればよかったのに。あなたが優しすぎたから、いいようにされただけ。これからは強くなって。もう二度と踏みつけられないで」
「分かってる」
美月は自嘲気味に笑った。
前世は、気づくのが遅すぎた。
でも今なら、やり直せる。
「もう切った。これからは、あいつらの顔色なんて見ない」
「首席の座も、美咲には譲らない。実力で、正々堂々勝つ」
「それでこそ!」
彩は嬉しそうに言った。
「あなたの実力、美咲よりずっと上。首席は絶対あなたのもの」
彩はふと思い出したように眉を上げる。
「ところで蓮とは別れたの? しつこくしてない?」
「分かんない。もうブロックした」
美月は肩をすくめる。
「多分、私がただ拗ねてるだけだと思ってる。落ち着いたら戻るって」
「は、図々しい!」
彩は鼻で笑った。
「そんなクズ、近寄らない方がいい。もし復縁とか言い出したら、私が全力で止める」
美月は小さく笑う。
「大丈夫。しない」
そのとき、診察室の扉がノックされた。
「どうぞ」
彩が言うと、扉が開く。
すっと背筋の伸びた男が入ってきた。品のある佇まい。彫りの深い顔立ちに、高い鼻梁。引き結ばれた薄い唇。
視線が室内を一巡し、最後に美月で止まる。
「……美月さん、でしょうか」
低く、よく通る声。まるでチェロの低音みたいに耳を撫でた。
美月は耳の奥が熱くなるのを感じながら、頷く。
「はい」
「はじめまして。九条宗一郎の甥の、九条湊です」
男――湊は近づき、手を差し出した。
「本日は叔父を助けていただき、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、叔父は――」
美月は怪我していない左手で握手を返す。
「九条様、こちらこそ。九条宗一郎様は、私がずっと憧れてきた指揮者です。助けられて光栄でした」
湊はわずかに目を見開いた。美月が叔父を知っているのが意外だったのだろう。
湊は手を引き、包帯の巻かれた美月の右手へ視線を落として眉を寄せる。
「その手は……叔父の処置で、ここまで?」
「いいえ」
美月は首を振った。
「その前に不注意で切ってしまって」
湊はそれ以上深追いせず、ただ短く息を吐いた。
そしてポケットから小切手を取り出し、机の上に置いて美月のほうへ滑らせる。
「美月さん。これは、ほんの気持ちです。叔父を救っていただいたお礼に」
「……すみません。さきほどの会話も、少し聞こえてしまいました」
「今、何かと大変な状況かと。役立ててもらえれば」
小切手に書かれた金額は、5,000,000。
美月は一瞥するだけで押し戻した。
「九条様、お気持ちはありがとうございます。でも私は、お金のために助けたわけじゃありません」
「憧れの人を救えた。それだけで十分です。これは受け取れません」
湊は彼女の澄んだ目を見て、駆け引きではないと悟ったのだろう。無理に押しつけなかった。
代わりに名刺を一枚差し出す。
「困ったことがあれば、いつでも連絡してください」
