第6章

美月は湊から差し出された名刺を受け取った。

印字されているのは名前と電話番号だけ。余計な肩書きは一切ない。

名刺をしまいながら、美月は言う。

「九条様、お気遣いなく。あの場に居合わせたら、誰だって手を貸します」

湊は彼女をじっと見つめた。

深い眼差しの奥は感情が読めない。けれど何も言わず、ただ小さくうなずく。

「……分かりました。では、橘さんの処置の邪魔はしません」

そう言い残し、湊は診察室を出ていった。

彩はその背中を見送りながら、美月の肩へ寄って、いたずらっぽく目を細める。

「やるじゃん美月。あの人、気配からして格が違う。蓮っていうクズの百倍はマシ。チャンス逃すなよ?」

「やめてよ。九条宗一郎さんを助けたのは、そういう目的じゃないってば」

美月は呆れたように言う。友人は昔から、こういう軽口が大好きだ。

「分かってるって。でも縁なんて、どこでどう転ぶか分かんないでしょ?」

口は茶化していても、彩の手は止まらない。手際よく処置を進め、あっという間に包帯まで巻き終える。

「はい、終わり。数日は水に触れないこと。力も入れないで。裂けたら厄介だからね」

そう言ってから、彩は心配そうに美月を見た。

「このあと、大提琴の首席考査……出るんでしょ?」

「平気。手が折れてない限りね。美咲が盤外戦術を使わなければ、私のほうが上」

美月の瞳が、わずかに冷える。

「……ていうかさ。住むとこある? 荷物も何も持ってないじゃん。うち来る?」

言われて、美月も気づいた。

日用品も持ち出していない。楽器だって置いたままだ。

けれど、手段がないわけじゃない。

「養父母が遺してくれた部屋があるの。片づければ住める」

あそこだけは、誰にも奪われない。自分の場所だ。

前世、養父母が亡くなり、偶然にも実の親が見つかった。ひとりじゃなくなった、家族ができた――そう思ってしまった。

けれど一ノ瀬家での暮らしは、孤児院よりもずっと惨めだった。

結局。

家と呼べるのは、養父母の遺した部屋だけ。

彩がほっと息をつく。

「よかった。気をつけて帰って。何かあったら、すぐ電話して」

美月は小さく笑い、病院を後にした。

タクシーはほどなく目的地に着く。

古びた団地。色あせた階段。漂う湿った空気まで、記憶のままだ。

鍵を回し、扉を開ける。

一LDKの小さな部屋。

扉を閉めた瞬間、美月は長く息を吐いた。

――ここが、私の家。

その次の瞬間。

視界がぐらりと揺れ、頭の芯がひどく痺れた。

ベッドまでたどり着いたところで、どさりと倒れ込む。

眩い白が、視界を塗りつぶした。

白の中で、氷のように冷たい機械音が響く。

【宿主の魂を検知】

【バインド完了】

【生命維持システム、起動】

【現在の好感値:10】

【警告:好感値が1週間以内に100に達しない場合、宿主は再度生命の危機に直面します】

【好感値獲得条件:他者からの心からの好意、承認、崇拝】

【好意度が高いほど、変換される好感値が増加します】

【生命ブレスレットを付与。色は好感値に応じて変化。初期色は白。好感値1000ごとに色が一段階アップ】

【ブレスレットは生命モニタリング機能を備え、異常を検知した場合アラートを発します】

音が途切れ、白も薄れていく。

脳を直接握り潰されるような痛みが走り、美月の意識はぷつりと切れた。

次に目を開けたとき、窓の外はすっかり明るい。

美月は額を押さえて起き上がる。昨夜の機械音が、まだ耳の奥に残っていた。

反射的に手首を見る。

白い手首に、銀白色のブレスレットが巻きついている。つるりと光沢だけがあり、模様も継ぎ目もない。皮膚にぴたりと張りつき、外れる気配がない。

引っ張っても、びくともしない。

まるで、最初から自分の一部だったみたいに。

美月の胸が沈んだ。

――夢じゃない。

本当に、何かに「つながれた」。

好感値を稼がなければ生きられない、だって?

笑える。

「愛が足りない」と判定されたから、こうして縛られたってこと?

1週間で100。残りは90。

達しなければ、また命の危機。

つまり――死ぬかもしれない。

美月は乾いた笑いを漏らす。

運命の「贈り物」には、最初から値札がついている。

重生だって、ただじゃない。

それでも。

やり直せる機会を与えられたのに、さらに何を望むというのだろう。

問題は、好感値10の出どころだ。

養父母はもういない。一ノ瀬家との関係も、言うまでもない。

なら、彩だ。

関係性からして、一人10が上限だろう。

残り90を1週間で――。

美月は息を吐き、思考を切り替える。

生きていなければ、復讐はできない。

報いを見届けるまでは、死ねない。

じゃあ、どこで好感値を稼ぐ?

自分の武器は、大提琴。

才能も実力も、同世代では頭ひとつ抜けている。

演奏動画をネットに上げたら。誰かが、好きになってくれるだろうか。

美月の瞳がぱっと明るくなる。

ほかに手がないなら、やってみるしかない。

当たって砕けろだ。

彼女はスマホを手に取り、新しいアカウントを作ろうとした――そのとき。

通知音。LINEが届いた。

表示された名前は、美咲。

嫌な予感しかしない。どうせ自慢だ。

それでも、美月は内容を開いた。

案の定だった。

美咲:お姉ちゃん、ごめんね。さっき隼人から聞いたんだけど、劇団の上の人が私を大提琴首席にするって決めたみたい。

本当は奪うつもりなんてなかったの。でも隼人が、お姉ちゃんは家と揉めて情緒が不安定だから首席は無理だって。

隼人のことも私のことも嫌いにならないでね? お姉ちゃんが落ち着いたら、隼人に言って首席返してもらうから……

そのあとに、委屈そうなスタンプ。

涙目の猫。

その猫ですら、美月には薄汚れて見えた。

得をしておいて、なお恩着せがましく振る舞う。吐き気がするほど、いつもの手口。

美咲はこういうやり方が得意だ。

一ノ瀬一族は目が見えないのか、それともただの愚か者なのか。美咲が二声泣けば、誰かが勝手に槍となって突っ込む。

前世の記憶がよみがえる。

首席を譲らされたあと、美咲はすぐ隼人の口利きで、人気音楽番組に出演した。

視聴率の高い番組で、「身の上が哀れで才能のある少女」という設定を纏い、同情と賞賛を集めていく。

一方の美月は、比較の的になった。

やがて匿名の中傷が溢れ、「嫉妬して妹の枠を奪った」と叩かれた。

それだけではない。

楽団幹部との肉体関係まで捏造され、気づけば――袋叩きの的。

どれほど否定しても信じてもらえない。

一ノ瀬一族も、蓮も、助けるどころか追い打ちをかけた。

恥さらしだ。家の面汚しだ。

あの頃は、人生でいちばん暗かった。

外へ出るのが怖くなり、スマホを見るのも怖くなり、死ぬことばかり考えた。

そして、その引き金を引いたのは――美咲だ。

前のチャプター
次のチャプター