第七章
美月はスマホをぎゅっと握りしめた。
今度こそ――同じ轍は踏まない。
美咲から届いた見せつけるようなメッセージにも、返信はしなかった。
首席の件は、ひとまず後回しだ。
今の自分に、資本の力と真正面からぶつかるだけの力はまだない。
笑える話だった。自分を潰すための力に手を貸しているのが、実の兄なのだから。
美月はただ、滑稽だと思った。
けれど前世、自分をネットリンチのどん底へ突き落としたあの音楽番組のことを思い出すと、胸の奥がすっと冷えていく。
――出る。
美咲なんか、本来なら相手にならない。
前世で自分を壊したその番組を、今度は逆に利用してやる。美咲を叩き返し、二度と這い上がれないところまで突き落とすために。
ただし、決まるまでは伏せておくべきだ。
先に漏れれば、また潰される。
美月はすぐにスマホを開き、検索をかけた。『星のしらべ』の応募締切まで、あと3日。
間に合う。
迷うことなく応募フォームを埋め、これまでに撮っていたチェロ演奏の動画をアップロードする。
あとは、番組側からの連絡を待つだけ。
それからの2日間、美月は部屋を片づけながら、『星のしらべ』一次予選用の曲を仕上げていった。
手の回復は思った以上に早い。もう通常の演奏にはほとんど支障がない。
3日目の午後、ついに番組から通知が届いた。
一次審査、通過。翌日、テレビ局で予選に参加してほしい――そう書かれている。
美月は審査員一覧にあった宗一郎の名前を見て、思わず目を見張った。
まさか、憧れの人がこの番組の審査員だなんて。
けれど、すぐに腑に落ちる。
前世では、この時期の宗一郎はすでに心筋梗塞で急死していた。だから、番組に出るはずもなかったのだ。
自分があの人を助けた。
そう思うと、美月はしみじみ感じた。
――生まれ変われて、本当によかった。
翌朝、美月はテレビ局へ向かった。
予選には大勢の参加者が来ていた。美月は隅の席を選び、静かに自分の番を待つ。
やがて、名前を呼ばれた。
ステージの照明はまぶしく、審査員席には数人が並んでいる。中央に座っていたのは、宗一郎だった。
宗一郎は美月を見るなり、わずかに目を見開いた。
自分を救ったのが彼女だということは、もちろん知っている。
ただ、こんな場所で再会するとは思っていなかったのだろう。
美月は軽く一礼し、椅子に腰を下ろした。
目を閉じ、深く息を吸う。
選んだ曲は、ヴィヴァルディ『四季』より「冬」。
弓が弦に触れた瞬間、音がすっと流れ出した。
あるときは低く沈み、あるときは鋭く燃え上がる。
美月は、自分の感情を一音一音に溶かし込んでいく。
序盤の速い旋律は、前世で風雪に打たれながら、たった一人で歩き続けた日々のように。
中盤のやわらかな静けさは、重生したばかりのあの一瞬の歓びと安堵。
そして終盤、どこか皮肉めいた下降音型とよろめくようなリズムは、過酷な現実に立たされてもなお、顔を上げて進もうとする意志そのものだった。
いつしか、スタジオは水を打ったように静まり返っていた。
誰もが、彼女の音に呑まれている。
宗一郎は舞台上の美月を見つめ、息をのんだ。
ここまでとは思わなかった。
技巧が優れているだけではない。なにより、感情の深さが違う。
彼女の音楽には、魂があった。
今この瞬間、彼女自身が、冬になっている。
――いずれ、世界に届く奏者になる。
そう確信できるほどに。
一曲が終わる。
数秒の静寂のあと、場内にどっと拍手が爆ぜた。
宗一郎が真っ先に立ち上がって拍手し、他の審査員たちも続く。
「こんなに心を揺さぶる『冬』は初めてだ。君の演奏で、音楽の魂に触れた気がした」
美月は驕ることなく、静かに一礼してから舞台を下りた。
袖に入ったところで、スタッフが駆け寄ってくる。
「橘さん、九条様がお控室でお会いしたいそうです」
美月はスタッフの案内で、宗一郎の控室へ向かった。
「九条様」
礼儀正しく呼びかけると、宗一郎はにこやかに手招きした。
「さあ、座ってくれ。いやあ、本当に素晴らしかったよ。まさかあんな才能を隠していたとはね」
憧れの人から真正面に褒められ、美月の頬が少し熱くなる。
宗一郎はそんな彼女を見て、ますます目を細めた。
「遠慮しなくていい。わしは長く生きてきて、才能ある若者をたくさん見てきた。だが、君みたいに瑞々しい感性を持った子は初めてだ」
そして、ふと思い出したように続ける。
「今夜、時間はあるかい。うちで簡単な食事でもどうだ。先日は命を助けてもらったのに、まだきちんと礼もしていない」
「はい。ぜひ、お邪魔させてください」
憧れの人と食卓を囲めるのだ。美月に断る理由などなかった。
「気を遣わなくていい、気を遣わなくていい」
宗一郎はうれしそうに笑う。
「むしろ、こんな年寄りの誘いに付き合ってもらうこっちが恐縮なくらいだよ」
午後6時。
黒いベントレーがテレビ局の前に静かに滑り込んだ。
車から降りてきたのは、湊だった。
長身の男だが、無闇に人を圧するような威圧感はない。
ただ、周囲を見渡すときにふと滲む、生まれながらの気品と冷ややかな格が、人を無意識に遠ざける。
正直、いかにも金の匂いがする実業家には見えなかった。
どちらかといえば、芸術家か、あるいは詩人のような空気をまとっている。
「橘さん、どうぞ」
低く艶のある声が耳元に落ちる。
どこか、よく知っているチェロの低音に似ていて、美月は思わず耳の奥が熱くなった。
ほどなく車は高級住宅街へ入り、瀟洒な一戸建ての前で止まる。
湊に案内されて中へ入ると、宗一郎がすでにリビングで待っていた。
「美月、来たか。さあ、座ってくれ。食事はもうすぐだから、その前に少し話そう」
三人のうち二人は音楽に深く関わる人間だ。当然、話題は自然と音楽中心になる。
「美月、今日の演奏は本当に見事だった。ただ、チェロ一挺だけだと、どうしても音の厚みは限られる」
宗一郎はそう言って、湊のほうを見た。
「湊はピアノがかなり弾けるんだ。どうだい、二人で一曲合わせてみないか」
美月は湊を見た。少しだけ迷いがよぎる。
すると湊のほうが先に、穏やかに口を開く。
「よろしければ、ご一緒しませんか」
その声音には、はっきりとした興味があった。
「……ぜひ」
そこまで言われて断る理由はない。
三人は音楽室へ移った。
部屋にはさまざまな楽器が整然と並んでいたが、ひときわ目を引くのは、壁際に置かれたスタインウェイだった。
湊がピアノの前に座る。
二人は一度だけ視線を交わし、演奏を始めた。
曲はカノン。
澄みきったピアノの響きに、チェロの深くやわらかな音が重なる。
驚くほど自然だった。
まるで何度も合わせてきたかのように、呼吸がぴたりと噛み合う。
宗一郎はその様子を眺めながら、満足そうに微笑んだ。
この二人には、確かに相性がある。
音のあいだに、言葉にしなくても通じるものがあった。
曲が終わると、二人ともどこか名残惜しそうな顔をした。
湊は美月を見つめ、率直に言う。
「橘さん……本当に素晴らしい音でした」
その目には、隠しきれない驚嘆が宿っている。
美月も素直に返した。
「九条様のピアノも、とても素敵でした」
少し弾いただけでも分かる。
湊の腕は、明らかに趣味の域を超えていた。下手をすれば、すでに達人の領域だ。
宗一郎が、どこか懐かしむように笑う。
「この子はね、小さいころから音楽の才に恵まれていてね。ピアノも、ヴァイオリンも、チェロも何でもこなした」
「てっきり音楽の道へ進むものと思っていたのに、まさか商売の世界へ行ってしまうとは。まったく……もったいない話だよ」
その言葉に、湊の目がほんのわずかに陰る。
だが、何も言わない。
美月はそこで初めて、九条家が音楽一家であることを改めて実感した。
成功した社長である湊が、宗一郎には「才能を無駄にした」と見えるらしい。
そこは正直、少し意外だった。
美月は言葉を選びながら、静かに口を開く。
「人には、それぞれの選び方があると思います」
「音楽家にならなかったとしても、ご自身の場所で成功して、ほかの人にはできないことを成し遂げているなら、それはとてもすごいことです」
「それに、音楽は音楽です。仕事にしなくても、人を幸せにできるなら、それで十分だと思います」
湊がふっと顔を上げ、美月を見る。
その目に、かすかな揺れが走った。
家族は皆、彼が音楽を捨てたことを惜しんだ。天賦の才を与えられながら、自ら手放したのだと。
音楽を知らない人間は、今の成功だけを見て称賛する。
けれど、彼が何を捨てたのかまでは分からない。
――分かろうとしてくれたのは、美月だけだった。
宗一郎は一瞬きょとんとしたあと、からりと笑い飛ばした。
「その通りだ、その通り! わしが頑固すぎたな。本人が幸せなら、それでいいんだ」
夕食の席は終始なごやかだった。
湊は口数こそ多くないが、その視線はさりげなく何度も美月へ向けられていた。
食事を終えるころには、時計の針はすでに9時を回っている。
宗一郎が湊に声をかけた。
「湊、もう遅い。美月を送っていってやってくれ」
