第8章

湊は小さくうなずいた。

二人は宗一郎に別れを告げ、屋敷を後にする。

車内の空気は、来たときよりずっと軽かった。

「……今日は、ありがとう」

不意に湊が口を開いた。

「何のお礼?」

美月が首をかしげる。

「さっき、俺のことをかばってくれただろ。……みんな、俺の選択を理解してくれない」

「そんなことないよ」

美月は口元に笑みを浮かべ、からかうように言った。

「九条社長みたいな人が、そんなことで悩むの? 青年才俊で、完璧じゃない」

――違う。あいつらは、分かってない。

湊は言葉にしないまま、ただ美月を見る目だけが柔らかくなっていく。

車はほどなく、美月の住む団地の前に滑り込んだ。

「送ってくれてありがとう」

美月は降りると、車内へ向かって軽く頭を下げる。

「気にするな。困ったことがあれば、いつでも連絡して」

湊は淡く笑った。

美月はそれに気づかないまま、軽くうなずく。

湊の車が遠ざかっていくのを見届けてから、美月は敷地の奥へと歩き出した。

――そして。

棟の入口に差しかかったところで、暗がりから見慣れた影がぬっと現れる。

蓮だった。

沈んだ顔色。冷えきった目が、美月を射抜く。

「……あいつと、どういう関係だ」

低い声。押し殺しているのに、怒りが滲んでいる。

美月は眉を寄せ、氷みたいに言い返した。

「あなたに関係ある?」

「関係ないわけないだろ」

蓮が一歩詰め、手首を掴む。

「美月。忘れたのか。おまえは俺の――」

「誰があんたの女よ」

美月は容赦なく脚を上げ、股間を蹴り上げた。

「離れて! もう別れた! 別れたって言ってるの、分かる!?」

蓮は身体を折り、歯を食いしばる。

「別れ? 俺が認めない!」

痛みに耐えながら、憎々しげに吐き捨てる。

「……美咲に首席を譲れって言ったのが悪かったのか? 俺が悪かったでいいだろ!」

「はっ」

美月は鼻で笑った。嫌悪が顔にそのまま出る。

「自信満々の馬鹿が謝るとか、奇跡じゃん。笑える」

そして、言い切る。

「蓮。終わったの。目を覚ましな」

蓮は息を整え、身体を起こして美月を睨んだ。

「……おまえ、まだ俺が好きなんだろ。意地張ってるだけだ」

「さっきの男は誰だ。金持ちだから俺と別れたのか? 美月、おまえ……そんなに物質的だったか?」

美月は思わず、乾いた息を吐く。

「近寄らないで。頭の悪さがうつりそう」

視線すら向けたくないまま、突き放す。

「今すぐ消えて。じゃないと通報する」

言い終えると、さらにもう一発、容赦なく蹴って踵を返した。

蓮は信じない。

美月がここまで冷たいなんて、認めたくない。

ぎり、と歯噛みし、凶悪な目つきになる。

「美月……後悔するぞ! いつか土下座して、俺に拾ってくれって泣きつく日が来る!」

吐き捨てて、怒りのまま去っていった。

その背中を見送りながら、美月は鼻で笑う。

後悔?

この人生で一番後悔してるのは、蓮と一ノ瀬家の連中を知ったことだ。

美月は棟へ入り、自分の部屋に戻る。

鍵を回し、ドアを閉めた瞬間――反射で左手首を見た。

手首のブレスレットが、銀白から淡いピンクへ変わっている。

心臓がどくんと跳ねた。

……色が変わった?

凝視すると、喜愛値が10増えている。

今日やったことは、予選に出て、宗一郎の家で食事をして、蓮に絡まれただけ。

彩の分は、もう加算されているはず。

――じゃあ、この10は湊?

でも彩も10だった。

……彩の好意が薄いってこと?

それとも、湊が一目惚れ?

美月は頬をぺち、と叩いて自分を落ち着かせる。

男は復讐の速度を落とすだけ。

――一方、一ノ瀬家の屋敷。

美咲はソファに沈み、スマホを眺めていた。

星のしらべ公式が投稿した一次通過者リスト。その中に「美月」の名を見つけた瞬間、美咲の顔から血の気が引く。

「……なんで……! 美月が星のしらべに!? しかも通ってる!?」

悲鳴みたいな声が漏れた。

隼人が二階から降りてくる。

「美咲、どうした。騒がしい」

「隼人、見て……! 美月が星のしらべに出て、通過してる……!」

美咲はスマホを差し出し、目に涙を溜めた。

「私が首席を欲しがらなければ……私が出られたのに……」

「星のしらべ、すごく人気なのに……美月に取られた……!」

隼人はリストを見て、表情を曇らせる。

追い出した美月が、ここまで来るとは思っていなかった。

「泣くな」

隼人は美咲を抱きしめ、甘やかすように言う。

「枠ひとつだろ。俺が取ってやる」

「制作の人間に知り合いがいる。電話して、おまえの枠を追加させる」

美咲の目がぱっと輝く。

「本当? 隼人!」

「本当だ。俺がいつ嘘をついた?」

隼人は笑った。

「安心しろ。おまえを出してやる。美月より、もっと目立たせる」

「ありがとう、隼人! 大好き!」

美咲は嬉しそうに隼人の腕にしがみついた。

その頃、美月のスマホが震えた。

フィルハーモニー管弦楽団の指導者からだ。

「美月か。今どこにいる?」

切迫した声。

「家です。先生、どうしました?」

「首席の件だ。やっぱりおまえだ」

指導者は言った。

「美咲は実力が足りない。今日のリハで簡単なところすら何度も落とした。上も決めた。首席はおまえに戻す。明日から来られるか」

美月は一瞬息を呑み、すぐ納得する。

美咲の底が割れただけだ。

けれど――今の彼女に、戻る気はない。

「先生、ごめんなさい。戻れません」

「どうしてだ。首席は皆の夢だぞ」

「星のしらべに応募しました。これからはそっちに集中します」

美月は静かに言った。

「首席は……美咲がやりたいなら、しばらくやらせておけばいい」

「番組が終わって、それでも務まらないなら――そのとき戻ります」

指導者はしばらく黙ってから、諦めたように吐息をつく。

「……分かった。席は空けておく。いつでも戻ってこい」

「ありがとうございます」

通話を切り、美月は窓辺へ寄った。

夜が深い。

思いがけない追い風――けれど。

……美咲は、きっと星のしらべに来る。

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