第1章
「紬、お前はもう岩崎家の子じゃない。お前の本当の親はスラム街に住んでいる」
「二十年育ててやった恩を返せなんて言わない。ただ岩崎家を出て、真乃に席を譲れ。……それだけでいい。約束できるか?」
三か月前の両親の言葉が、いまも耳の奥にこびりついている。
あの冷えきった目。今すぐ清宮紬を叩き出したい――そう顔に書いてあった。
それなのに、今夜。
清宮紬のためだという見送りの席で、岩崎のお父さんはお守りを差し出した。
「紬、これは父さんが拝んでもらったんだ。持っていけ。無事でな」
絞り出したような哀しみ。名残惜しげな身振り。わざとらしさが、痛いほど滲んでいる。
清宮紬は凍てつく花みたいに、伏せたまなこを揺らさない。岩崎家の薄っぺらな情に合わせる気などさらさらなく、お守りを受け取ると淡々と尋ねた。
「……もう、行っていい?」
岩崎成夫が一瞬、顔をこわばらせる。父娘情深い芝居が、そこで息切れした。
「清宮家がまだ来てない。もう少し待て」
「門のところ、見てきます」
服装は質素。頭の先からつま先まで黒と灰でまとめ、雪みたいに白い顔だけが不釣り合いなほど整っている。
ただ、その精緻さには生気が欠けていた。
岩崎成夫は腹の底の苛立ちを押し殺し、去っていく背を見送る。拳がきゅっと固まる。
「ほら、見なさいよ!」
母の白石琴音が歯を食いしばり、岩崎成夫のそばで吐き捨てる。
「この子、性格が気味悪いって言ったでしょ。ちっとも私たちの血じゃないの丸わかり! やっぱりスラム街の下層民よ!」
岩崎成夫はワイングラスを指先で弄び、眼鏡の奥で算段を光らせた。
「この気性だ。スラム街に戻れば、痛い目を見るさ」
三か月前――岩崎家の叔母さんが重症でICUに入った。
清宮紬は自ら肝移植の可能性を探ろうとした。だが、その「孝心」が皮肉にも真実を暴いた。清宮紬は岩崎家の血ではなかったのだ。
岩崎成夫と白石琴音は金に糸目をつけず、人脈を総動員して失散した実の娘を探した。拍子抜けするほど早く見つかり、二か月も経たないうちにスラム街の番号から連絡が入る。相手は清宮紬の引き取りを名乗り、今日、迎えをよこすと言った。
二十年前、岩崎家が病院で子を産んだ日は、情勢が荒れていた。
白石琴音は当時の医者の杜撰さを思い出すたび腸が煮えくり返る。実の娘は外で流浪し、自分は清宮紬を贅沢に育ててしまった――。だが体面のため、愚痴は陰で噛み砕くしかなかった。
その話を聞きつけ、送別会の本当の主役――岩崎真乃が、珠光をまとったドレスでわざとらしく首を傾げる。
「パパ、ママ……相手って本当にお姉ちゃんの家族なの? 詐欺だったらどうするの? スラム街って治安が悪いって聞くし、人身売買とか……」
「放っときなさい。外で野垂れ死にでもすればいいわ!」
白石琴音が吐き捨てた。
岩崎真乃の口元が一瞬だけ得意げに歪み、すぐに押し殺される。それでも心配そうに眉を寄せた。
「……私、やっぱりお姉ちゃんを見送りに行くね」
岩崎家のお嬢様。可憐で聞き分けがよく、骨の髄から高貴な血が流れている――そう見せねばならない。
清宮紬は門のそばに立っていた。背後の繁栄も喧噪も、まるで自分とは無関係だと言わんばかりに。
使用人の小川さんが、清宮紬の旅行鞄をどさりと地面へ放った。中から紙束がばらばらと散る。
清宮紬は横目でそれを見た。冷えた水面みたいな瞳が、すべてを見透かすように静かだ。
「すみませんねえ、お嬢さま。私、不器用で。こんなガラクタ、散らしちゃって」
小川さんは拾う気もない。
岩崎真乃が戻ってから、使用人たちは風向きを読んで清宮紬を平気で踏みつけた。
清宮紬は紙に視線を落とし、胸の奥がちくりと疼く。――これは「ガラクタ」じゃない。彼女が積み上げた証明だ。
「お姉ちゃん、こんなゴミ紙を宝物みたいに? スラム街に持っていって、ご飯に換えられるの?」
岩崎真乃がちょうどよく現れ、小川さんと目配せを交わす。見下ろす視線には優越感が満ちていた。
清宮紬は構わず屈んで拾い集める。いちばん上の一枚に、ちらりと『脳端植入研究報告』の文字が走った。
二十年、上等な暮らしをしてきた肌は白く光り、細い手首には手鏡みたいに眩いブレスレット。手だけで嫉妬を買う美しさだった。
岩崎真乃は、それが岩崎家の伝世の品だと知っている。
「……それ、どこから?」
岩崎真乃は歯噛みし、苛立ちを隠さず詰め寄った。
「北条家と縁談する人しか貰えないって言ってたじゃない! あんた岩崎家の子でもないし、千隼兄さんだってあんたなんか娶らない。なのに、なんで!」
清宮紬は立ち上がり、書類を鞄に戻してから、丁寧にファスナーを閉める。ゆっくり振り向き、氷のように岩崎真乃を見下ろした。
「欲しいなら、そう言えば。そんなに怒鳴らなくても」
図星を刺され、岩崎真乃は噛み殺した。だが清宮紬がブレスレットを指先で滑らせ、外しかけるのを見ると、得意げに顎を上げる。
「忠告してあげる。身の丈に合わないものを欲しがらないことね。自分がどぶの下層民だって、わかってないの?」
「下層民って、何?」
清宮紬は二本の指でブレスレットをつまみ、墨色の瞳に冷たい刃を浮かべた。
「誰が決めたの?」
岩崎真乃が手を伸ばして奪おうとする。
「決めるまでもないでしょ? 聞いたわよ、清宮家ってあんた以外に息子が三人もいるんだって。貧乏人は産むのが好きなのよ。養いきれなくて、ゴミ山で漁って生きるんでしょ!」
――けれど、指が触れるより早く。
清宮紬がふっと力を抜く。
ブレスレットは、足元へ落ちた。
