第4章
その一言で、言い争いはぴたりと止まった。
代わりに返ってきたのは、鼻で笑うような嘲り声がいくつか。
カツ、カツ、とハイヒールが床を刻む音。女医が歩み寄り、唐沢星也のデスクの前で足を止めた。
院内でもっとも若い主任――彼女は、目の前にいる清宮紬など最初から存在しないかのように振る舞い、すれ違いざまに紬の手からレントゲン写真をひったくった。
「星也。何度言ったらわかるの。関係者以外、執務室への立ち入りは禁止よ」
清宮紬が現れた途端、二人の主任はあっさり同じ陣営に並んだ。
もう一人の主任もすぐに乗っかる。
「そうだ。誰でも出入りしたら外の菌を持ち込むだろ。消毒の手間が全部水の泡だ」
「これはうちの老院長が定めた規則なんだぞ」
その言葉に、唐沢星也の拳がぎゅっと固まる。
「主任、それは――」
言い切る前に、紬が彼の袖を指先でつまんで制し、氷みたいな目で二人を見た。
「……貴院の佐藤院長のこと?」
女主任の表情が、わずかに引きつる。老院長は何十年も前に上層部の判断で密かにK市へ移され、表に出ることはない。規程類を作った人物として名が残るだけで、その素性自体が機密だった。
それを、せいぜい二十歳そこそこの娘が、なぜ――。
「あなた、院長を知ってるの?」
紬は薄く笑う。
「先週、一緒にお茶しました」
場の空気が凍りつく。
「ただ、院長がおっしゃってました。病院の規則は一つだけ――『患者を全力で治せ』って」
そう言いながら、紬はポケットから白い小型スプレーを取り出し、入口脇の手洗い台を顎で示した。
「消毒なら、さっきアルコールを噴霧しました」
「でも、あそこに置いてあるのは一般用のハンドソープ。注ぎ口に固まった液がべったり残ってる」
紬の声は淡々としているのに、刃だけはよく研がれていた。
「次に佐藤院長にお会いしたら、直接伺おうと思ってます。この程度の衛生環境で『合格』なのかどうか」
またもや口論は沈黙に飲まれた。だが前回と違い、今度は唐沢星也が小さく吹き出す。
紬は表情を変えない。
「それで。患者さんの治療方針、続けていいですか?」
「……こほん」もう一人の医者が咳払いをし、隣を見た。「鈴木主任、私は別のオペの様子を見てきますので」
バン、と乱暴に開いたドアが、今度はそっと閉まる。
室内に残ったのは、気まずそうに眉尻を引きつらせた鈴木主任と、唐沢星也、清宮紬だけ。
だが鈴木主任は退かない。眼鏡の奥の視線を細める。
「で? あなたのご高説は?」
紬は声を張らない。けれど芯は折れない。
「今すぐ手術を組んでください」
鈴木主任は予想していたのか、口元をわずかに吊り上げた。
「残念だけど、うちには今、その手術を回せるチームがない。何より執刀医がいないのよ」
「まさか……」
眼鏡の奥の目が鋭く光る。
「あなたが執刀するつもり?」
隣の唐沢星也が何かに気づき、慌てて紬の袖をつかんだ。
だが遅い。
紬は一切迷わず頷いた。
「貴院が責任を怖がるなら、私がやります。試してみてもいい」
次の瞬間、手首に強い引きが走り、紬の身体が廊下へ引っぱり出される。
立ち直った先にいたのは、唐沢星也の焦りきった顔だった。
「わかってないのか。罠だぞ」
「ベッドにいるのは、榊原家の大旦那様なんだぞ!」
紬は一瞬だけ目を瞬かせ、すぐ肩をすくめる。
「知ってる。だから助けるの」
「いい人だし。前に岩崎家で会ったときも、お茶をご馳走してくれた」
唐沢星也の表情が、焦燥から呆れへと変わっていく。彼は黙って背を向けた。
数秒。大きく息を吸い、決心したように振り返ると、両手で紬の肩をつかんだ。
「……わかった。俺が助手に入る」
紬は眉を寄せ、腰に手を当てて彼を上から下まで値踏みするように眺める。
「あなた、執刀しかやらないって言ってなかった? 一生、誰の下にもつかないって」
唐沢星也は気まずそうに頭を掻く。
「わかってねえな。今回うまくやれば、中にいるあの女の席は俺のもんだ」
「安心しろ。俺が主任になったら、まず最初に手洗い台のソープから替える」
紬は答えず、肩に置かれた大きな手をそっと握った。
唐沢星也は心臓が跳ね上がり、目つきがやけに真剣になる。
「紬……」
次の瞬間、紬はその手を容赦なく振り払った。
「服に触った。入る前に、もう一回消毒して」
そう言い捨てて部屋へ戻る。唐沢星也だけが廊下に取り残され、ぽかんと立ち尽くした。
執務室では、戻ってきた二人を見た鈴木主任が愛想笑いを貼りつけた。
「外で手術の相談でもしてきたの?」
唐沢星也はさっきの気まずさを怒りに変え、手洗い台のポンプをぐいっと押し込んだ。
「そうだ。俺が清宮さんの助手に入る。今すぐ手術を組め」
鈴木主任の眉が寄る。不満が露骨だ。
「星也、あなたはまだ若い。でも論文も出してるし、大きな手術だってやってきた。将来は明るいのよ」
「一時の衝動で潰すことないでしょう」
唐沢星也は反対されるのが我慢ならない。目を見開いた。
「将来? 俺は出世しに来たんじゃない。患者を助けに来たんだ!」
「それでも不安なら、俺の医者人生を担保にする!」
鈴木主任は、そんな言い返しをされると思っていなかったのか、眉間の皺がさらに深くなる。
「唐沢星也。医師免許も不確かな娘のために、そこまでのリスクを背負うっていうの?」
言い終える前に、唐沢星也が紬の斜め掛けバッグへ手を突っ込んだ。紬が戸惑って抵抗するのも構わず、証書を引き抜いて掲げる。
「そこはご心配なく。清宮さんは医学の名門を出てる。これは国家資格だ」
「それに、うちの病院でも何度も救急対応に入ってる」
「必要なら、資料を倉庫から引っ張ってきましょうか?」
鈴木主任の顔色が変わる。完全に想定外――それでも今さら引けない。ベッドの向こうには榊原家がいる。
一度、深く息を吸ってから。鈴木主任は悔しさを押し殺し、最後の賭けに出た。
「いいわ。なら、私も言っておく」
「出どころも実力も不明な医師を院内の治療に関わらせることには、私は最後まで反対よ」
「だから手術が失敗して、榊原家が責任を追及してきたら――責任はあなたたちが全部負いなさい」
震える指が唐沢星也を指す。
「そのときは、あなたもここにいられない」
紬の瞳がわずかに見開かれ、断ろうと口が開きかける。
自分が手を出したのは、榊原の大旦那様が「いい人」だったからだ。けれど唐沢星也のキャリアを賭けさせるとなれば、話が変わってしまう。
だが唐沢星也は、もう完全に火がついていた。手近な机をバンバンと叩く。
「いい! 失敗したら、俺が院長室に辞表を出す!」
そして彼は言葉を切り替え、今度は鈴木主任を指した。
「じゃあ成功したらどうする?」
鈴木主任は一拍考え、渋々と口を開く。
「成功……なら……」
「なら、お前が清宮さんに土下座して頭を下げろ。師匠って呼んで弟子入りしろ!」
