第2章
「だいぶ良くなったよ」
ドアの向こうから志朗の声が聞こえた。
やがて扉が開き、志朗と香奈が連れ立って入ってくる。
二人は肩が触れ合いそうなほど近くに立っていた。志朗ははっとしたように身を翻して香奈から少し距離を置くと、足早に私のベッドサイドに腰を下ろし、すっかり冷めきったお粥の椀を手に取った。
真っ白な患者衣を身にまとった香奈が、ベッドのそばまで歩み寄る。その顔色は赤みを帯びて血色が良く、瞳は爛々と輝いていた。重病患者らしい虚弱さなど微塵も感じられない。
彼女は私を見下ろし、その瞳の奥に軽蔑の色を潜ませていた。
「乃愛お姉ちゃん、本当にありがとう」
わざとらしく間延びした声で言いながら、彼女は私の手を握ろうと手を伸ばしてきた。
「あなたの骨髄がなかったら、私、とっくに持ちこたえられなかったわ」
私は無意識に手を引っ込めた。
香奈は瞬時に目元を赤くし、いじらしげに志朗を見つめた。
「志朗お兄ちゃん、乃愛お姉ちゃんは私のことが嫌いなのかしら。私が二人の足手まといになってるのは分かってる。私のせいで、彼女にこんなつらい思いをさせて……。いっそ……いっそもう彼女から血を採るのはやめて、私なんかこのまま死なせて」
「馬鹿なことを言うな!」
志朗の顔色が途端に険しくなった。彼はお粥の椀をサイドテーブルにドンと叩きつけるように置くと、私を振り返って責めるような口調で言った。
「乃愛、香奈はただでさえ体が弱いのに、なんて態度をとるんだ。わざわざお見舞いに来てくれたのに、その冷たい顔は何だ?」
正義感を振りかざすようなその姿を見て、私はただただ胃の腑から吐き気が込み上げてくるのを感じた。
これが、彼の言う愛なのだ。
私の両親の命と、私の両足を犠牲にして得られたのは、彼からの見下ろすような施しと非難だけだった。
こみ上げる憎悪を必死に押し殺し、私は弱々しい笑みを無理に作った。
「志朗、誤解よ。骨髄を採ったばかりで腕に力が入らなくて、香奈を傷つけてしまうかと思っただけ」
志朗の表情がわずかに和らぐ。彼は一つため息をつき、私の頬を撫でた。
「乃愛、つらい思いをさせているのは分かってる。でも君も知っているだろう、香奈の病気には君が必要不可欠なんだ。医者の話だと、数値は安定してきたものの、万全を期すために来週もう一度採血と骨髄採取必要があるらしい」
もう一度?
私は心の中で冷笑した。今の私の体調でこれ以上採取されれば、命の半分を奪われるようなものだ。
「志朗お兄ちゃん、そんなことして乃愛お姉ちゃんの体はもつの?」
香奈は口元を覆って見せたが、その底には興奮の光がギラギラと瞬いていた。
「君のためなら、彼女も喜んでやってくれるさ。そうだろう、乃愛?」
志朗は私の目をじっと見据えた。その口調は優しいものの、有無を言わせぬ圧迫感が込められている。
「ええ、構わないわ」
私は伏し目がちに答え、瞳に宿る凍てつくような冷酷さを押し隠した。
あなたたちが私の命を欲しがるのなら、私からは「死」という結末をプレゼントしてあげよう。
彼の望み通り、私は跡形もなく消え去り、この先二度と彼と顔を合わせることはない。
研究所から自宅に戻ると、志朗はあろうことか香奈まで連れ帰ってきた。病気のケアがしやすいからと尤もらしい口実を設け、数日泊まるだけだと私に約束までした。
以前の私なら、嫉妬に狂い、悲嘆に暮れ、なぜ彼女を私たちの家に住まわせるのかと彼を問い詰めていただろう。
しかし今の私は、一刻も早くこの地獄から抜け出すことしか考えていない。
だからこそ、私はかつてないほど従順に振る舞い、一切の拒絶をしなかった。志朗も罪悪感からか私にさらなる優しさを見せるようになり、償いだと称して目玉が飛び出るほど高価なダイヤモンドのネックレスまで買い与えてきた。
そのネックレスを首にかけ、鏡に映る幽霊のように青白い自分の顔を見つめながら、私はただ皮肉な巡り合わせを呪った。
どれほど高価な品であろうと、私が失った両親、歩けなくなった両足、そして抜き取られた大量の血の埋め合わせになどなるはずがない。
その日の午後、志朗は会議のため研究所へ出かけていった。
香奈が一人で私の部屋にやって来る。
彼女はもう偽ることをやめ、悪意に満ちた視線を向けてきた。
「乃愛お姉ちゃん、あんた本当にしぶといわね。あれだけ血を抜かれたのに、まだ生きてるなんて」
私は眉をひそめた。
「どういう意味?」
「言葉通りの意味よ」
香奈が顔を近づけてくる。
「志朗お兄ちゃんがあんたを愛してるとでも本気で思ってたの? あんたなんて、ただの便利な動く血液バンクでしかないのよ。あの時の交通事故だってね、私が志朗お兄ちゃんに『彼女の血が欲しい』って言ったら、彼、ためらわずにやってくれたわ」
「あんたの両親の死に様、本当に悲惨だったわね。脳みそまで飛び散ってさ……」
布団の下で両手をきつく握りしめ、爪が食い込むほどの痛みに耐えながら、私は表面上は平静を保ち、あえて笑みすら浮かべてみせた。
「冗談はやめて、香奈ちゃん。ちっとも笑えないわ」
香奈は私のこの反応を予想していなかったのだろう。思いきり殴りつけたこぶしが綿に吸い込まれたような、手ごたえのなさを感じているようだった。
彼女は冷たく鼻を鳴らし、踵を返して部屋を出て行った。
ドアが閉まった瞬間、ついに私の目から涙が堰を切ったようにあふれ出した。
お父さん、お母さん、ごめんなさい。二人の命を奪ったやつらには、必ず代償を払わせてやるから。
私は涙を拭い、スマートフォンを手に取ってある番号に発信した。
そこは、私が結婚前に働いていたハイテク研究機関だ。数日前、私は彼らと再びコンタクトを取り、復職の要請を受諾していた。
その代わり、彼らにはほんの少しだけ手助けをしてもらう必要がある。
「計画を前倒しするわ。明日の午後、ラボで」
私は手短に告げた。
「了解。準備はすべて整っている」
相手からの返答は迅速だった。
通話を切り、引き出しの奥深くからあらかじめ印刷しておいた離婚届を取り出すと、私はそこに自分の名前を書き込んだ。
翌日の午後、志朗の手配により、私は「術前検査」と称してラボへ向かうことになった。
香奈はどうしても付いてくると言って聞かなかった。
「乃愛お姉ちゃんのそばにいてあげたいの。一人じゃきっと心細いでしょうから」
彼女は心優しい妹を装っていた。
ラボの室内には数え切れないほどの化学薬品が並び、鼻を突くような刺激臭が立ち込めている。志朗の助手は、彼に用事を言いつけられて席を外していた。
だだっ広いラボに残されたのは、車椅子に座る私と香奈のみである。
「乃愛お姉ちゃん、今日は随分とおとなしいのね」
香奈が私の前に歩み寄り、見下ろすように視線を投げかける。その瞳には、悪意に満ちた光がよぎっていた。
私は彼女を無視し、ただ黙々と残された時間を計算していた。
あと五分。
「黙っていればやり過ごせるとでも思ってるの?」
香奈がふいに冷笑を漏らす。
「志朗お兄ちゃんが言ってたわ。今回血を抜いたら、あんたは高い確率で植物状態になるって。そうなったら、私が真っ先にあんたのチューブを抜いてあげるわ」
私は答えず、ただ顔を上げ、口元に不気味な笑みを浮かべてみせた。
その私の笑みに激昂した彼女は、勢いよく手を伸ばし、私の肩を力任せに突き飛ばした。
