第3章
香奈に突き飛ばされた瞬間、私は身を躱さなかった。彼女の力に逆らわず、背後の試薬棚に激しく叩きつけられたのだ。車椅子から転げ落ち、冷たい床に倒れ込んだ。
ガシャァァァン———
ガラスが砕け散り、可燃性の化学試薬が何本も床に叩きつけられ、液体が急激に広がっていく。それが傍らで稼働していた機器に触れた途端、青白い炎が瞬時に燃え上がり、床の薬品を伝って壁際の配線にまで引火した。
フロア全体に鋭い警報音が鳴り響く。赤い警告灯が明滅し、瞬く間に濃い煙が立ち込めた。
香奈は恐怖で呆然とし、悲鳴を上げながら後ずさりした。
「ち、違う……私じゃない! わざとやったわけじゃないの!」
火の手が回るスピードは異常に早く、すさまじい熱波が瞬時にラボを煉獄へと変えていく。
バンッ、とラボの扉が蹴り破られ、目を血走らせた志朗が飛び込んでくる。
「志朗お兄ちゃん! 助けて! 助けてよ!」
香奈が這うようにして彼にすがりつく。
私も口を開いた。微弱な声で。
「助けて……」
心の奥底にこびりついていた惨めな期待が、まだ微かに足掻いていた。もしかすると、もしかすると彼はこちらを優先してくれるかもしれない。たとえ、私が彼の妻だからというだけの理由であっても。
志朗の視線が私たちの間を彷徨ったのは、わずか一秒にも満たなかった。そして彼は、飛びついてきた香奈を受け止め、その身を庇うように抱き寄せた。
彼は顔を上げ、炎の壁越しに部屋の隅に取り残された私を見た。その瞳に、一瞬だけ葛藤と恐れの色がよぎる。
「乃愛! 持ちこたえろ、先に香奈を外へ出してから、すぐに助けに戻る!」
彼は私に向かって叫ぶと、躊躇うことなく香奈を抱き上げ、身を翻してラボから駆け出していった。
遠ざかるその背中を見つめながら、私の中にあった微かな期待は、ついに完全に霧散した。
生死の境にあっても、私が助けを求めたとしても、彼はやはり躊躇いなく香奈を選ぶのだ。
この三年間のあらゆる苦痛、あらゆる屈辱、あらゆる未練が、この瞬間にすべて答えを得たような気がした。立ち込める黒煙の中で、私はむしろ清々しいほどの笑い声を上げていた。
志朗、もう深い愛情を繕う必要はないし、選択を迫られることもない。どのみち今日から、私たちはもう夫婦ではなくなるのだから。
私は重い体を引きずって部屋の隅にある通気口のルーバーをこじ開け、ダクトへと潜り込んだ。そこには、あらかじめ機関に用意してもらっていた偽の死体が置かれている。血まみれの上着を脱いでその死体にしっかりと巻き付け、炎が最も激しく燃え盛るエリアへと突き落とした。
すべてを終え、私は感覚のない両足を引きずりながら、狭いダクトの中を死に物狂いで這い進んだ。背後のラボから凄まじい爆発音が轟き、熱波がダクト内を渦巻く。それでも私は、かつてないほどの自由を感じていた。
さようなら、志朗。
さようなら。愚かで、軟弱で、三年間も血液パックのように血を搾り取られ続けた、桐生乃愛。
志朗は香奈を抱きかかえてラボのあるフロアから飛び出し、彼女を安全な場所へ下ろすや否や、踵を返して駆け戻ろうとした。
香奈はすぐさま彼の腕にすがりつき、泣き叫んだ。
「志朗お兄ちゃん、行っちゃダメ! 火が強すぎる、死んじゃうよ! 乃愛お姉ちゃんは……もう手遅れかもしれない……犬死にしないで!」
彼女はきつく彼を掴み、決して離そうとしなかった。
志朗は香奈の手を振り払った。
「香奈、ここで待ってろ。すぐに戻る」
言い捨てるなり、ラボへ向かって猛然と駆け出した。
ラボの入り口に辿り着いたまさにその瞬間、激しい爆発音が轟き、凄まじい衝撃波が志朗の体を容赦なく吹き飛ばした。
彼の体は廊下の壁に激しく叩きつけられ、視界がぐにゃりと歪む。
もがきながらどうにか身を起こしたときには、ラボは完全に業火に飲み込まれていた。肌を焼くような熱波が押し寄せ、もはや誰一人として足を踏み入れることなど不可能な状態だった。
志朗は呆然と、ただ絶望に染まった顔でそこに立ち尽くし、猛り狂う炎を見つめることしかできない。熱波に抗えず、じりじりと後ずさりしていく。
その時、消防車のサイレンが鳴り響き、防護服に身を包んだ消防隊員たちが駆け上がってきた。志朗は彼らに続いて飛び込もうとしたが、数人の隊員に力ずくで押さえ込まれた。
「危ない! 入っちゃダメだ!」
「離せ! 中に妻がいるんだ! 行かせてくれ!」
志朗は必死に叫んだ。目尻が裂け、血が滲む。
「あいつは足が不自由なんだ! 俺がいなきゃ、逃げられないんだよ!」
香奈も泣きながら駆け寄り、消防隊員と一緒に彼を引き止めた。
「志朗お兄ちゃん、落ち着いて! 乃愛お姉ちゃんは……今から行ったって、もう……」
志朗は狂ったように暴れたが、最後には消防隊員と警備員たちによって床に押さえ込まれた。地に膝をついたまま、絶望の淵で消防隊員たちが火の海へ突入するのを見送り、炎が徐々に鎮圧され、そして消し止められていくのをただ見つめることしかできなかった。
濃煙が晴れる頃には、ラボ全体が黒焦げの廃墟と化し、かつての面影は欠片も残っていなかった。
二人の隊員が、黒い遺体袋を抱えて瓦礫の中から出てくる。
彼らは地に膝をついたままの志朗の前に歩み寄り、遺体袋のジッパーを下ろした。中に収められていたのは、完全に炭化し、身元さえ判別できないほどの変わり果てた骸だった。
志朗の顔から一瞬にして血の気が引く。ふらつきながら後ずさりしようとしたが、両足から力が抜け、そのまま地面へと重々しく崩れ落ちた。
隊員が透明な証拠品袋を差し出した。そこには、半ば熱で溶けかけたダイヤモンドの指輪と、焼け残った衣服の切れ端が入っていた。
「現場からは、このご遺体とこれらの品しか発見されませんでした。お悔やみ申し上げます」
「嘘だ……そんなはず……」
志朗は、ドロドロに溶けかけたそのダイヤの指輪を、ただ虚ろな、それでいて執拗な視線で見つめ続けていた。
