第4章
志朗視点
それは、彼が乃愛にプロポーズした際、自らの手で彼女の薬指にはめた指輪だった。
震える手を伸ばし、その黒焦げになった遺体に触れようとして――空中でぴたりと止まった。底知れぬ恐怖と後悔が胸の奥で広がり、無数の鈍器で心臓を抉られているような激痛が走る。
「乃愛……起きてくれ、頼むから驚かさないでくれ。戻って助けるって言ったじゃないか、俺はただ……先に香奈を外へ逃がしただけで……」
しどろもどろに呟きながら、涙をぼろぼろとこぼし、黒く焦げた遺体袋を濡らしていく。
周囲の者たちはその光景を見て、愛する妻を失い取り乱す愛情深い夫なのだと信じて疑わなかった。だが、香奈の瞳の奥にだけは、思い通りになったと言わんばかりの暗い悦びが浮かんでいた。
葬儀は三日後に執り行われた。空からは、そぼ降る雨が絶え間なく落ちていた。
参列者は少なかった。乃愛には友人がほとんどおらず、足を運んだのはごくわずかな人たちだけだった。喪服に身を包んだ志朗は、一回りも二回りも痩せこけ、両眼は落ち窪み、まるで魂を抜き取られた歩く屍のようだった。祭壇の遺影の前に立ち尽くし、乃愛の笑顔を何度も何度も見つめる。その横顔はただ無表情で、絶望に染まっていた。
やがて時間が経つにつれ、参列者たちは次々と立ち去っていった。
香奈が彼のそばに歩み寄った。
「志朗お兄ちゃん、もう遅いよ。一緒に帰ろう」
志朗は首を横に振り、しゃがれ声で答えた。
「先へ帰れ」
最後に残ったのは、志朗と研究所の同僚だけだった。
同僚は志朗の肩をぽんと叩いた。
「だから前から言ってたじゃないか。奥さんをもっと大事にしろって。お前は彼女をただの血液バンクだと言い張ってたが、俺には分かってたよ。お前は彼女を愛していた。ただ、自分自身でそれを認めたくなかっただけだ。今さら後悔したって、もう遅いんだよ」
志朗の体がビクンと跳ねた。見えない大槌で胸を激しく打ち砕かれたかのようだった。両足はもはや体重を支えきれず、祭壇の前にドサリと膝をつく。そのまま遺影を抱きしめ、全身を激しく震わせた。
同僚は深くため息をつき、きびすを返して去っていった。
雨は次第に激しさを増していく。
祭壇の前に跪く志朗の脳裏に、過去の光景が次々とフラッシュバックする。
香奈は、彼が幼い頃に両親が引き取った孤児だった。不慮の事故が両親の命を奪い、残された彼と香奈は肩を寄せ合って生きてきた。彼は常に彼女を甘やかし、唯一の肉親として大切にしてきた。だが、自分が香奈に抱いている感情が、決して男女の愛情ではないことは痛いほど理解していた。それは単なる庇護欲と溺愛であり、亡き両親への贖罪に過ぎなかったのだ。
だからこそ、三年前。香奈が泣きながら、難病の血液疾患に侵され余命わずかだと打ち明けた時、彼は激しく取り乱した。あらゆる伝手を頼り、香奈を救えるドナーを世界中から探し回った。そうして、乃愛を見つけ出したのだ。
焦燥に駆られた彼は、決して許されざる手段に打って出た。あの交通事故を仕組んで彼女の両親を死に追いやり、彼女自身の両足から自由を奪ったのだ。その上で、最も絶望している彼女の前に救世主のごとく現れ、手を差し伸べることで、自分を愛するように仕向けた。
この三年間、血液や骨髄を採取するたびに、痛みに耐えていたのは彼女だけではなかった。彼自身もまた、心を掻き毟られるような痛みを味わっていたのだ。それでも、香奈のことを想うと――香奈が生きるためには彼女の血が必要なのだと考えるたびに、心を鬼にして乃愛を傷つけ続けるしかなかった。
当の彼女は、一度たりとも不平をこぼさなかった。いつも優しく微笑みながら、「香奈ちゃんの役に立てるなら、あなたと一緒にいられるなら、私は平気だから」と言ってくれた。彼女はそれほどまでに健気で、思いやりがあり、限りなく優しかった。
こんな歪な日々がずっと続くのだと錯覚していた。香奈への約束を守りながら、乃愛の優しさに甘え続けることができるのだと。だが今、彼女は死んでしまった。失って初めて、彼は思い知らされたのだ。自分がとうの昔に、あの心優しい女性を心の底から愛してしまっていたことに。
それなのに、自分自身の手で、彼女を殺してしまった。
日がどっぷりと暮れるまでそこに留まり、志朗はよろけながら立ち上がると、葬儀場を抜けて家へと戻った。
家の中は、数日前に外出した時のままだった。玄関には乃愛のスリッパがきちんと揃えられ、リビングのソファには読みかけの本が置かれ、ローテーブルの上には飲みかけの水が入ったグラスが残されている。すべてが、まるで彼女の帰りを待ちわびているかのようだった。
志朗はすでに香奈を彼女自身のマンションへと帰らせていた。これ以上、彼女をここに住まわせるつもりはなかった。この家は、彼と乃愛、二人だけのものなのだ。
ゆっくりと階段を上り、乃愛の寝室のドアを押し開ける。部屋にはまだ彼女の気配が、あの淡く優しい香りが色濃く残っていた。
ずぶ濡れになったスーツのジャケットを脱ぎ捨て、志朗は乃愛のベッドに倒れ込んだ。そして、彼女の枕に顔を埋める。馴染み深い香りに包まれていると、ふとした瞬間、彼女がまだそばにいて、何もかもが夢だったのではないかという錯覚に陥る。
再び、とめどない涙が頬を伝い落ちた。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。志朗は気力を振り絞って身を起こした。その時、ふとナイトテーブルの上に視線が引き寄せられた。そこには、一枚の紙と一本のボイスレコーダーが置かれていたのだ。
心臓が大きく跳ねた。歩み寄り、その紙を手に取る。それは「離婚届」だった。乃愛の署名欄にはくっきりと彼女の字が記されており、彼の署名欄だけがぽっかりと空欄のまま残されていた。
彼女は離婚届を用意しながら、彼にサインを求める間もなく、この世を去ってしまったのだ。
荒くなる呼吸を必死に抑えながら、志朗はボイスレコーダーを手に取り、震える指で再生ボタンを押した。
静まり返った部屋に、一切の温度を感じさせない、乃愛のひどく冷めきった声が響き渡った。
「志朗、あなたがこの録音を聞いている頃、私はもう死んでいるでしょう」
「もう愛情深い夫を演じる必要はないし、私の体調を気遣うふりもしなくていい。あなたのスマホに入っていた動画、とっくに見てしまったから。三年前の交通事故も、両親の死も、動かなくなった私の両足も、そしてこの三年間、死ぬよりも辛かった血液や骨髄の採取も……全部、知っていたの」
「あなたの言う愛なんて、私を香奈の歩く血液バンクにするための口実に過ぎなかった。ねえ、志朗。この三年間で、私の血はまだ搾り足りなかった?」
「だから今、この命をあなたに返す。血の代償は血で贖う。これで、私たちの間は完全に清算されたわ」
「あなたと香奈が、地獄に落ちることを祈ってる」
録音はそこでぷつりと途切れた。
志朗は咄嗟に喉の奥から大量の鮮血を吐き出し、純白のシーツを赤黒く染め上げた。
「違う……違うんだ……乃愛!」
彼は離婚届とボイスレコーダーをきつく抱きしめ、子供のように声を上げて慟哭した。
「俺が間違ってた! 俺は本当に、お前を愛していたんだ! どうして俺にチャンスをくれなかったんだ……どうして、一度だけでもやり直させてくれなかったんだよ!」
彼はついに理解した。彼女の死は決して不慮の事故などではない。血を抜きすぎたことが原因でもない。彼女がすべての真実を知ってしまったからなのだと。
あの事故が彼の仕組んだものであることも、この三年間に及ぶ偽りも、自分が単なる道具として扱われていたことも、すべてを悟ってしまったからだ。
だからこそ、彼女は自ら死を選んだのだ。死をもって、彼との関係に永遠の終止符を打つために。
