第3章

 答えなかった。画面には拓海の名前が何度も点滅している。ブブッ、ブブッという振動を無視して、スマホをコーヒーテーブルの上に裏返しに置いた。

「涼真」ベランダのドアのそばに立つ彼へ視線を向ける。

 彼は振り向いた。煙草はまだ火をつけていない。私がスマホをひっくり返した動きを、その目がさらりとなぞる。「……何?」

 私は革張りの椅子から立ち上がり、リビングの中央にある布張りのソファへ歩いていって、そのまま腰を下ろした。乾かしてなんていない。髪と脚から落ちる水滴が、乾いたクッションにみるみる濃い染みを作っていく。

 頭を少し反らして彼を見上げる。「今夜、どこで寝るの?」

 涼真は視線を逸らし、私のむき出しの脚を避けた。廊下の方へ手を振る。「俺のベッド使え。俺はソファで寝る」

 私は座面の濡れたところに指を伸ばして触れた。「でも、ソファ濡らしちゃった。ここじゃもう寝られないよ」

 涼真が固まる。

 彼の目が湿った布地に落ち、ゆっくり上へと上がっていく。私の体にだぶだぶと掛かったオーバーサイズのTシャツで止まった。薄暗い光の中でも、彼の喉仏がごくりと上下するのがはっきり見えた。

 彼はすぐに顔を背け、つかつかと歩み寄って乾いたタオルを私の頭にばさりとかける。「髪乾かせ。寝ろ」

 声が、かすれて荒い。

「涼真は?」タオルを握りしめて訊く。

 彼は私を見ないまま、まっすぐ机へ行って紙束を掴んだ。「採点」

 私は立ち上がり、廊下へ向けて二歩ほど進んだところで、机の上の涼真のスマホが震えた。

 彼は動きを止め、画面に目をやる。そして目を上げ、部屋の向こうから私と視線を重ねたまま数秒黙って――出た。

「拓海。……何だ」涼真の声には、欠片ほどの温度もない。

 私は足を止めた。心臓が突然、跳ね上がるみたいに速く打ち始める。

「明日香が俺のカードと鍵、ゴミ箱に投げ込みやがった! 誰かが、お前のマンションの方に向かうの見たって言ってた。涼真、お前んとこに来てんのか? 来てるならさ、芝居はやめろって言ってやれよ」受話器から漏れる拓海の声は、苛立ちと当然の権利みたいな響きに満ちていた。

 涼真はスマホを握り締め、視線を私に縫いつけたまま言いかける。「俺――」

 言い終える前に、私はタオルを落とし、裸足のまま彼のところへ真っすぐ歩いた。

 彼の脚の間に入り、片手を机に置き、もう片方を首に回す。そのまま迷いなく膝の上に跨った。オーバーサイズのシャツは一瞬で捲れ上がり、むき出しの太腿が、間に何も挟まずに彼のスウェットに押しつけられる。

 涼真の全身が石みたいに固くなる。反射的に私を押し退けようと手が動くのに、触れたのは素肌だった――シャツの下、腰のあたりの裸の肌。遮るものは何もない。

 彼は完全に硬直し、息を鋭く呑む。

 私は彼の耳元へ身を寄せ、唇が触れそうな距離で囁いた。「涼真……私、ここにいないって言って」

 向こうでは、拓海がまだ喋っている。「おい、聞いてんの?」

 首に回した腕越しに、彼の脈が狂ったように打っているのが伝わる。涼真は顎を引くようにして私を見上げた。いつもは抑え込まれている灰青色の瞳が、ひび割れていく――危うく獣じみた何かが、奥から突き破ってくる。

「見てない」涼真は私の目を見据えたまま、喉仏を強く滑らせ、声を掠れた囁きに落とす。「それに、もしここに来てたとしても――お前のところには戻さない。今夜は二度と電話してくるな」

 彼は通話を切った。

 スマホが机に叩きつけられ、乾いた音が響く――最後の理性が切れた音だった。

 私の腰に回っていた涼真の手が突然きつく締まり、ぐっと引き寄せられて胸に押し潰される。密着した体で、彼が完全に固くなっているのを感じた。全身の筋肉がロックされたまま――男が誤魔化しようも隠しようもない、あの反応。

「明日香」涼真の声が、危険なほど低く沈んだ。「元カレに仕返しするために誰かを利用したら、どうなるか分かってるのか?」

 私は少しだけ身を引こうとして、体重をずらした。

 たったそれだけの動きで、彼は私の下でさらに強く強張り、全身がぴんと張り詰める。

「動くな」噛みつくように言う。

「利用なんて、して――」

 言い終える前に遮られた。涼真が後頭部を掴み、私の口を自分の口に叩きつける。乱暴で、不器用で、息もできないほど貪り、罰するみたいな飢えが溶け合ったキスだった。

 ようやく解放されたとき、私は彼の肩に崩れ落ちるようにもたれ、喘ぐしかなかった。唇は腫れて、ひりひりと痛い。

 口の端を舐め、わざと彼の目を見返す。「授業ではあんなに抑えてるのに、キスになると人を食べちゃいそうだね。唇、腫れた」

 涼真は反論しなかった。目を閉じたまま、私の首のくぼみに額を押し当てる。荒い息が肌を焼くように当たり、必死に自分を抑え込んでいるのが分かった。

 それでも、腰を掴む手は鉄みたいにきついままだ。

「涼真……」痛くなってきた。私は彼の指をこじ開けようとする。

「動くなって言った」彼はすぐに私の手を捕まえた。掌が熱い。顔を上げると、端正な顔には生々しい欲がまだ残っているのに、声はさらに低く落ちた。「今度は……ゆっくりやる」

 そしてまた口づけられる。優しさなんて欠片もない――深く、執拗で、息という息を奪っていく。引きずり込まれて溺れていくみたいで、私は彼の中に沈んでいった。

 息をしようと顔を背けた瞬間、唇が彼の首筋をかすめた。脈が暴れている場所。考える前に、私はそこへ歯を立てていた。

「くっ――」

 いつも理性で塗り固めている涼真が、喉の奥から絞り出すような罵声を漏らした。

 自分自身との喧嘩に負けかけている男の音だった。

 私の下で、彼の体が万力みたいに一気に固まる。絡みついていた緊張が頂点に達し、躯が大きく震え、乱れた呼吸が私の鎖骨にぶつかった。

 数秒間、完全な静止。それから、彼の中の何かがぷつんと切れた。

 涼真が目を見開く。乱暴に私の腰を掴み、膝の上から持ち上げると、書類とファイルの散らばった机の上へ強く座らせた。

 彼は跳ね起きる。勢いで革の椅子が後ろへ滑り、書棚にぶつかって鈍い音を立てた。

 私は机の縁に座ったまま、太腿のあたりで彼のシャツがくしゃくしゃに寄っているのも忘れ、呆然と彼を見た。

 彼は背を向け、両手を机に突いて肩を大きく上下させている。薄暗いスタンドの灯りの下、灰色のスウェットの前面に大きな濃い染みが広がっていくのがはっきり見えた。

「涼真?」私はそっと呼んだ。

 彼は火傷でもしたみたいにびくりとする。教室を絶対の静寂で支配する男が、首筋から耳まで真っ赤に染めていた。

 振り向かない。机を掴む拳は白く、最後の矜持にしがみついているようだった。

「寝ろ」目を閉じたまま、壊れた声で。「今すぐ」

 返事を待たず、彼は何かに追われるみたいに影の中へ歩き去った。

 一分ほどして、浴室でシャワーの音が響いた。

 私は皺だらけの紙の山の上に座ったまま、腫れた唇を指先でそっと触れる。

 さっきの出来事を反芻した。涼真は百九十センチ近い長身で、全身から制御された力が滲み出ている。どう見ても、この男が……ほんの少し触れられただけで、あそこまで完全に理性を失うタイプには見えない。

 ――三十年間、誰にも近づけず距離を保ってきた、あの触れられない教授が、実は一度も誰かとそういう関係になったことがないのだとしたら。

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