第3章 帰還

1時間後、相馬蛍はS市に降り立った。

きりっとした黒のスーツが、雪みたいに白い肌をいっそう際立たせる。かつての柔らかな面影は、もうどこにもない。

いまの彼女は、息をのむほどに美しかった。ゆったりしたシルエットのスーツでさえ隠しきれない曲線が、否応なく視線を集める。

振り返る人間は多い。

けれど、隣の小さな男の子の鋭い視線に気づくと、みな気まずそうに顔をそむけていった。

相馬蛍が纏う空気は、もう「弱くて誰にでもいじめられる女」じゃない。

近づくな、と無言で告げるような、冷えた距離感。

ただし――その冷たさは、隣の男の子の前では一瞬で崩れる。

蛍は小さな手をゆらゆら揺すって叱った。

「梓哉! 少しは子どもらしくできないの?」

さっきまで熱い視線を投げてきた男たちは、この子に睨まれた途端、蜘蛛の子を散らすように消えたのだ。

相馬梓哉。

あのとき蛍が海へ堕ちる瞬間まで、命がけで守り抜いた子。

――ただ、惜しいことに。

成長するほど、梓哉は「ある男」に似ていく。あと2年もすれば、並んで歩くだけで「同じ型で作った親子」と言われるだろう。

梓哉は黒いベースボールキャップを直すと、ぴしっと姿勢を正し、蛍を見上げた。

「はいっ! 蛍姉の命令は絶対!」

言い終わるや、敬礼までしてみせる。

蛍は唇を結ぶ。

「相馬梓哉、いい? ここはロサンゼルスじゃないんだから、調子に乗らないで。もし強制送還になっても、私を巻き込まないでよ」

「はいはい、分かったってば。蛍姉ってほんと小言多いんだもん」

梓哉は口を尖らせ、のんびり蛍の隣を歩く。

そのとき、入口に黒い庫里南が滑り込むように停まった。

後部座席のドアが開き、真田辰則が長い脚で降り立つ。

夕陽が、女の背中をやわらかく染めた。

――真田辰則の視線が、ぴたりと止まる。

見えた。

あの背中。5年間、幾度も夜を貫いた影。

夢の中で、女が振り返りそうになるたび、彼ははっと目を覚ました。

いつも、あと少し。あと少しで顔が見えるのに。

真田辰則は、いつもの悠長さを捨てた。大股で追う。

誰もが相馬蛍は死んだと思っている。

だが真田辰則だけは、彼女が生きていると信じ続けた。

生きている。

そう感じる。しかも、近い――近い……。

人波をかき分け、逆光の中で、ついにスーツケースを引く女に追いつく。隣には小さな男の子。

「相馬蛍!」

反射的に、真田辰則は女の手を掴んだ。指先が、わずかに震えていることにも気づかないまま。

目の前に立ち、言葉が喉で詰まる。

「相馬蛍……」

――違う。

顔が、相馬蛍と似ても似つかない。淡い瞳の奥にも、彼女の痕跡が一欠片もない。

女は掴まれた手をすぐには引き抜かず、薄く笑った。

「失礼ですが……どうして私の名前を?」

隣の梓哉が、目をまん丸にする。

――クソ親父!

だがすぐに、まぶたが下がる。

……いや、クソ親父って、伝説ほどひどそうに見えない? 見間違い?

梓哉は小さく首を振った。

違う。写真のまんまだ。絶対に。

しばらくして、真田辰則は自分の失態に気づき、手を放した。

「すまない。人違いだったようだ」

人違い?

相馬蛍は心の中で冷たく嗤う。

あのとき、割れたガラスが顔に刺さった。妊娠していたせいで手術もできず、9か月、ただ耐えた。

いまの顔は完璧だ。誰が目の前に立とうと、かつての相馬蛍だとは分からない。

蛍は淡々と言う。

「大丈夫です。あなたのお知り合いにも相馬蛍という方がいるなら……何かの縁かもしれませんね」

縁。

真田辰則は一瞬、言葉を失い――すぐに口を開いた。

「縁というなら、よければ夕食でもどうだ」

「夕食?」

蛍はこめかみの髪を払って、笑うでもなく笑った。

「そのナンパ、少し古くないですか。しかも私、結婚しているんです」

「結婚している」

その言葉が耳に入った途端、真田辰則の胸の奥がざらついた。理由は分からない。

「……失礼した」

5年前と同じ、冷たい声。

鋭い輪郭、薄情そうな瞳。

それだけで、蛍の中の過去が疼く。

彼女は息を整え、作り物の笑みを乗せた。

「さようなら」

すれ違う瞬間。

梓哉はいつの間にか棒付きキャンディを口に入れ、ぺろぺろ舐めていた。

そして――狙ったように小走りになり、

「どんっ」

わざと転び、手のキャンディを真田辰則のスーツの股間部分にべったり貼りつけた。

言うまでもなく、最悪の場所だ。

2つの視線が、そこへ落ちる。

蛍の紅い唇が、ほんのわずかに吊り上がった。

真田辰則は潔癖だ。これは完全に地雷。

床にうつ伏せの梓哉が、わざとらしくぱちぱち瞬きをする。

「おじさん、ごめんなさい。転んじゃった。起こしてくれる?」

子どもの声に、普通なら怒れない。

だが相手は真田辰則――。

蛍が引きずってでも連れて行こうとした、その前に。

真田辰則が先に動いた。

彼はゆっくりキャンディを剥がし取り、屈んで両手を差し出す。

「どこか打ったか? 痛いか?」

低く、驚くほど優しい声。

蛍は唇を噛み、足が止まった。

梓哉は差し出された手を取らず、自分でぱっと立ち上がる。ぱたぱたと服の埃を払ってから、母のところへ戻った。

「蛍姉、ここ悪い人多い。早く行こう」

「……」

蛍は慌てて頭を下げる。

「すみません。この子、普段からそそっかしくて……ズボン、弁償します」

いつもの真田辰則なら、不機嫌が顔に出る。

だが彼は穏やかに笑い、梓哉の前にしゃがんで、頭をくしゃりと撫でた。

「いい。大したことじゃない」

蛍は呆然とした。

……父親になったから?

だから「他人の子」にも寛容なの?

水原初歌が妊娠していたことを、蛍は忘れていない。

心の底が、じわりと苦くなる。心上人が身ごもっているのに、平気で自分と――。本当に、たちが悪い。

*

タクシーの後部座席。

蛍は左右に距離を取って座り、複雑な目で梓哉を睨んだ。

梓哉は口元を引きつらせる。

「なに、その目。蛍姉にそんなふうに見られると、なんか変」

蛍はこめかみが痛くなる。

「梓哉。褒めてほしいの?」

「いやいや、どういたしまして!」

梓哉は得意げに鞄から新しいキャンディを取り出し、ぽいっと口に放り込む。幼い顔は無邪気そのものだ。

「蛍姉、あの男、絶対に下心あったよ。顔はまあまあ、脚もとととと長いけどさ。でもさ、そんなの関係ない。蛍姉には釣り合わないって」

蛍はキャップを軽く叩いた。

「……あんた、あの人が誰か分かってるの?」

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